隣人を愛せよ

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苦渋を舐めさせたマリオネットの僕は、壊れたソファーのスプリングのように、勢いよく起こされ、壊れたメトロノームのように、脈を打っている。部屋には鼻にツーンと、冷たい潮気と酒の残り香が漂っていた。喉の乾きが、あれは悪夢だということを確かめさせる。倒れるように背をソファーに委ね、額に手を当てクマができつつある目で、ダイニングを仰ぎ見た。乳白色のカーテンを通した月光が、フローリングを返して薄暗く天井を照らしている。傷めないよう、首を妙な方向に視線とともに動かすと、ソファからずり落ちて冷え切った片足の視界が脳裏に映された。 「今度からは、ちゃんとベットで寝よう。悪い寝相は...悪夢を見そうだからな、」 それにしても悪夢を見るから寝相を悪くするのか。鶏がさきか卵がさきか、いささかどうでもいいように思えるが、僕にとっては今日日重要なことである。今度は自分の意思で、体を起こし両足を床につけると、一瞬身震いした。床は潮気よりは冷たく、月光と同じくらい冷たかった。涎さえも乾ききっていて、僕の体の水分は寝ているときに、だいぶ搾り取られたようだ。寝床がこれというのもあり、すぐにシンクの水をコップに注ぐ。僕は水を一気に飲み干し、乾いたコップの音を部屋に響かせたあと、すぐに隣の寝室のドアを開け、枕めがけてベットに飛び込んだ。僕は目から下まですっぽり覆うように、布団を体に被せ、思いに耽った。寝るためだけに設けられた家具で寝るのが一番である。なんせとても温かい。そして、ぬくもりを感じる。さしずめ、このぬくもりはポリエステルを温める自分自身だが、嗚呼、誰かのぬくもりを感じたい。ソファーで寝ていても、敷布ぐらいもかけてくれやしない。それもそうだ、僕には、ガールもフレンドもいないからね。いるっちゃいるか、旧友の幼馴染がひとり、でも遠い親戚より、近くの他人だ。隣の他人は赤すぎたけどね。日付を越えるまで、リビングの机でひとり酒で呑んだくれていたんだ。一緒に飲んでくれるやつなんていないさ。時刻は鬼門を半。眠たいはずなのに、全く眠たくない...まぁいいや、特にやることもないので、孤児院の頃から続けていた日記を今書いている。昨日のね。 僕は仕事から帰ってくるとき、特に辛党という訳でもないのに、やけになってウイスキーを一瓶買った。そして、開けて、注ぎ、呑んだくれた。なぜそんなにもやけになっていたのか。これには色々あるが、主な理由は三つ、一つは孤児院から社会に出て、その環境に慣れず、上司に怒られてばかりだから。二つ目は、最近になって悪夢を見るようになったから。悪夢と言っても夢なので、何が恐ろしいとか、怖いとか、覚えてないし、わからないし、(というか覚えたくも、わかりたくもないが、)ともかく、なにか悪いものということはわかっている。三つ目は...やっぱり日記に書くのはむず痒いというか、恥ずかしいから理由はこの二つを挙げておく。もうこれ以上、クマを大きくするのは嫌なので、10月26日の日記をこれで終わりとする...。僕はここで日記と目を閉じた。  真っ暗な世界から、聞こえようのない鳥の鳴き声が聞こえる。僕は目を開けると、今さっきまで充満していた月光は光芒に変わっていた事に気づいた。うむ、気持ちいい朝だ。そう、水曜の何気ない、いい朝。蹴伸びとあくびを同時にしながら、思わず声が漏れた。「在宅っと...」もちろん上司からの催促もない。今日の仕事は在宅で行われる。僕は明日のことも考えずに、飲んでいたわけではないのだ。そんなことで三つ目の理由を忘れられたかは定かではないが。 僕は数時間前と同じように、ベットから出た。マグカップにコーヒを淹れにいく残月時だろうか。マグカップをエスプレッソマシーンに置いた。ウィーンという音を立てるロボットのような機械音は、僕の耳を打ち、劈く。最近、いやちょうど一年前僕はコーヒーとやらに目覚めた。コーヒーとて、僕は甘党だから、コーヒーにも、たっぷりと砂糖を入れてしまう。だが、最近はコーヒーには砂糖をあまり入れないようにしている。若干二十歳になって気づいた。あまりにも入れすぎるとコーヒーが不味くなると。風味と苦さのコクがいいのに、それを相殺させてしまう。あまつさえ何飲んでるか、わからなくなる。そのぶん紅茶はいい、いや、いいってわけでもないが、苦味は少ない。もちろん入れ過ぎ注意はコーヒーと同じだが、僕は糖分多めの紅茶が好きだ。そんな事を考えながら、淡いチョコレート色が見えるマグカップを口に運ばせながら、自分のノートブックを起動させ、近頃のニュースを見る。こういう朝からのんびりすることは月並みだが、日々の切迫した日常にゆとりを持たせてくれる。 《労働基準監督所が行政権を行使》ニュースでは勤務先の会社が話題沸騰中。先月から会社はカフェオレになった。砂糖もミルクもなかった会社には代わりに、世間の白い目を入れてブラックからカフェオレになった。甘党の僕がコーヒーに砂糖を入れられる。今までは会社にミルクもシュガーもなかったんでね。行使前とはまさに天と地ほどの差があるといえる。枚挙にいとまがない事務作業。これが比喩であってほしかった。そして気づけば僕のデスクは数十キログラムの格安コピー用紙で埋葬されていた。僕はあそこで過労死した。そして、走馬灯を、というところでまた地獄にAEDで戻された。何も覚えていないが、いや覚えていても、思い出したくはないが、どうやら僕は、あのとき、一度死んでいたらしい。 デスクと一緒に合祀されていた僕の死体を発見した、木村さんという人が助けてくれたらしい。眼が覚めれば、また真っ暗な世界から鳥の鳴き声、いや三体問題のように三匹のひよこが僕の頭上を回っていたのであろう。見ない顔だなと思っていたら、どうやらこの木村さん、弊社のたったひとりの清掃員だったのである。黒は汚れが目立たないというのにうちの会社は、申し訳程度の付け焼き刃を雇っていたのである。なぜ悪し様に表白するのか、良く言えば、と言うより傍から見れば佳人な木村さんは 僕の隣人、赤い僕の隣人だからである。
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