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紫煙の空から
「ゲホッ! ゲホッ!」
おれがマスク越しに激しい咳を放った瞬間、おれの周りから一斉に人が波を引いたように離れていった。
今、おれがいるのは会社帰りの電車の中である。血のような真っ赤な夕日に包まれた電車の帰宅ラッシュ時の鮨詰め状態だ。無個性な海苔巻きの鮨達がヒソヒソとおれに向かって囁く。
「まさかコロナか?」
「うわ、濃厚接触者になっちまったよ」
「家帰れねぇよ」
「熱っぽいなら電車乗るなよ」
と、おれを罵倒する言葉のオンパレードの開催だ。無個性な海苔巻きは世知辛く冷たい山葵巻きのようだ。
だが、おれはコロナ感染者ではない。なぜなら、おれは今日職域検査でPCR検査を受けて陰性と診断を受けている。この職域検査も他県に在する支社でコロナ感染者が発生し、万が一を考えておれが所属する本社で職域検査を急遽開催することに社長が決めたのだ。
完璧に安心はしていないが、おれはワクチン接種も職域接種で三回受けている。
そんなおれが何故に激しい咳をしたかと言うと…… ただ単に長年吸っている煙草の影響か気管や気管支が数多の化学物質でボロボロなだけだと思う。
おれが煙草を吸い始めたのは学生時代に大文豪に傾倒し、その大文豪が吸うのと同じ銘柄の煙草を吸いたいと考えたのがキッカケだ。おれは幼き時より小説家を志していた。大学の文学部に入った上に、形から入るために大文豪が愛煙していた銘柄の煙草を吸っていた。今にして考えれば大文豪と同じ煙(空気)を吸っただけで小説家になれると思っていたのは本当に愚かとしか言いようがない。おれには文才が皆無だったのか、どこの小説の大賞にも箸にも棒にもかからない結果に終わってしまった。筆を折る以前の話、筆を持ってすらいない段階での挫折である。小説家を志したおれが得たものは「煙草を吸う習慣」のみであった。大学を卒業した後は普通の会社に入り、普通のサラリーマンとして勤続45年を継続している。堅実に働き、堅実に給金を得ることが出来たおかげか妻と息子にも恵まれ、中流家庭より頭一個上の上の下ぐらいの暮らしだ。息子もこの晩婚化の時代に18歳で早々に結婚して、孫までも生まれている。おれはまだ還暦前なのに「じいじ」と呼ばれるのは複雑な気分であるが、不快ではない。
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