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ピアノ
「君にしかできないんだ」
私は圧が苦手だった。
穏やかに晴れた春の朝。ベッドを降りてリビングへ向かう途中、沢山の目に見つめられた。
気味が悪くて、慌てて階段をかけ降りる。
そして最後の数段を軽く踏み外した。
「何してるの?美琴」
「別に何でもないよ、母さん。」
本当は何でもないわけなかった。でも、それを伝える勇気は、私にはない。
大丈夫じゃないとカミングアウトすることは、私にはできない。
学校に向かえばいつもそこそこの友人がいた。
「美琴」と名前を呼んでくれる友人がいた。
でも、私は誰も信じようとはしなかった。言葉を交わすこともなく、微笑みを振りまくこともない私に、皆は飽きて、やがて話しかけるのを辞めた。
ただ、一人を除いて……。
「美琴!おはよぉ~!」
「……」
「いい加減名前呼んでよー。」
呼ぶ気なんてない。そもそも、信じていない。
この人は私の友人じゃない。友人のふりをして貶めてくる友人もどきだ。
私はふいっと横を向いて、独りきりで廊下を駆けていった。先生の注意の声は、いつも通り耳を通り抜けた。
ぐだぐだな友好関係のまま、私は秋を向かえた。
結局、体育祭は欠席し、課外授業は忘れたふりをして、イベントの打ち上げやクラス会はボイコットした。そしてとうとう、大嫌いな行事の練習が始まった。
「神埼さん、ピアノどう?」
「えー?うちじゃ無理だよぉ」
「でも、誰も弾かないんじゃ始められないわ」
じゃあ、あなたが弾けばいいじゃない。
誰もそう言い返さないのが癪だった。
カースト上位の女子に逆らうなんてもってのほか。
私は逆らうどころか関わる気すらなかった。
顔を上げると、ピアノを押し付けられているのはよく私に声をかけてくる彼女だった。
一瞬足が動きかけて、でもまた止まった。
ほんの少しでも動こうとした自分が恐ろしかった。
信じてはいけないと分かっているのに信じたい自分に嫌気がさした。しばらく彼女が抵抗すると、女子たちは諦めて矛先を別に向けた。
……その矛先というのが私だった。
「ねぇ、匂坂さん?あんたピアノ出来るんでしょ?史上最年少で全国ピアノコンクール優勝だっけ?合唱コンでも弾いてよ。」
時がしばらく止まったように感じた。
不思議な空間を打ち破ったのはやはりというかなんというか、彼女、神埼結愛の声だった。
「あー、やっぱうちが弾くわ。ね、それでいい?」
氷のような視線が降り注ぐことを肌で感じた。
でも無視した。私はピアノなんて二度と触りたくないのだ。
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