2話:side愛染

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2話:side愛染

 初めて出会った時、強く印象に残ったのは瞳の強さだった。  悪を許さない、罪を見逃さない、闇には屈しない。あたかも正義のヒーロー信じる幼子のような純粋さに、そしてこちらを見つめるそのまっすぐな瞳に、思わず魅入られてしまったことは今でも強く印象に残っている。  誰も見つけることはできないと確信していた隠し部屋に辿り着いた唯一の刑事は、初々しさしか感じない男だった。たった一人で乗り込んできたくせに銃の構え方もなっていなければ、背後を取られてもまったく気づかない、未熟が服を着て歩いているようなものだった。  いつもの自分なら、きっとその場で殺していたことだろう。  それがその夜に限ってできなかったのは、目の前に現れた人物が『運命の番』だったからだ。  その男と顔を合わせた途端、一秒も経たない間に本能が様々なことを要求した  彼を殺してはいけない。  彼を守れ。  彼を捕まえろ。  彼を愛せ。  彼の首に噛みつけ、と。  こんなことは生まれて初めてだった。  ギフテットとして生まれた自分は、欲しいものはすべて己の力で手に入れてきた。自分に手に入れられないものなどないと知っていたがゆえに、これまで欲に対して焦りを感じたことなどなかった。  そんな自分が、こんな欲まみれの獣に成り下がるとは。    運命の番とは面倒な存在だと、心の底から思った。  けれど――抗うことはできない。  出会って初めて分かった。  それは確かに運命なのだと。 ・ ・ ・ 「ん……っ」  大の男が二人寝ても十分に広いベッドの上で、小さな唸り声が鳴った。  どうやら考えごとをしながら自然と指で唸り声の主の髪の毛を弄っていたため、眠りを妨げてしまったらしい。    こんなふうに無意識に相手に触れてしまうようになったのも、運命と出会ってからだ。昔は一夜限りの相手とベッドを共にしても、行為が終われば熱も冷め、さっさと着替えてしまっていたのに今では一分一秒を惜しむように限りある夜を堪能しようとしている。    警視庁本部所属の刑事と、犯罪コーディネーター。  どちらもひとたび仕事が始まれば秒刻みで動かなければいけない職種ゆえ、逢瀬の時間を作るのも苦労する。今夜こうして顔を合わせ、肌を重ねるのも実に一ヶ月ぶりだ。  二人は今夜もベッドに堕ちた瞬間、ケダモノに成り下がった。引きちぎるほどの力で互いの服を剥ぎ、肌を貪り、体力が底をつくまで腰を動かし続ける。全身余すところなく汗と欲の液でドロドロになりながら、相手の奥深くを突き、スキンの中に白濁を吐き出す。  その時、毎度のようにアルファの本能が強く求める。  今だ、早く相手のうなじを噛んでしまえ、と。  しかし、どれだけ願ってもそれだけは許されなかった。  運命と出逢いながらも番うことができない宿命。    これが犯罪に手を染めた者への制裁なのかと思うと、当然の報いだと自嘲が溢れる。しかしそう納得する一方で、二人の道が交わることを拒む神がいるのならば持ち得る能力すべてを使って制圧し、運命を変えてやりたいと考えてしまう自分もいる。  要するに欲しいのだ。  運命のすべてが。 「……………おい……」  再び思考に耽っていたら、 「なんでしょう?」 「寝ないのかよ……」  眠たそうな声で、隣に寝ていた男が不服を漏らす。 「私に寝てほしいのですか?」 「…………そっちだって明日も忙しいんだろ」 「ええ、警視庁捜査五課の刑事と同じぐらいには」 「だったら早く寝ろよ……」  枕に半分顔を埋めたままこちらに手を伸ばし、羽織っていたシャツの裾を掴んでくる。そのまま緩く引っ張るので、望みどおりシーツに身を沈めれば、枕に沈んでいた頭がムクッと少し浮き上がった。 「霧人?」  起きるのだろうか、と様子を見ていると浮かせた頭がゆっくりとこちらに寄ってきた。そして生まれたばかりで目も見えていない子猫が親猫を探すかのように胸元に擦り寄ってきて、思わず笑みを零してしまった。  起きている時は敵意を向けるか文句か不満を口にするかのどちらかで、可愛らしさなんてまるで見せないくせに、ベッドの上でだけこうして素直な姿を見せてくれる。  ――だから、こんなにも愛おしいのかもしれない。  ブランケットから覗く剥き出しの肌に見えた無数の紅い痕は、すべて今夜自分がつけたもの。もちろん、隠れている部分にも余すところなく所有印が散らばっている。  我ながら自制心のかけらもないと呆れ果てる。  これまで出会ってきた女性たちとの記憶を巡らせるが、これほど強い執着を抱いたことはなかった。大抵は一夜限りの関係だったり、仕事上必要な肉体関係ばかりで、その時隣にいたとしても離れればすぐに忘れてしまっていた。だが霧人だけは永遠に捕まえておきたいと願ってしまう。これが運命の番の本能だといえば、きっとそうなのだろう。現代科学や医学ですら解き明かせない脳のシステムなのだから、どうすることもできない。  昔、仕事で知り合ったイタリアンマフィアのボスから聞いたことがある。 『裏の世界で生きていきたいなら、決してオメガには手を出すな』と。  彼は知能指数が高いハイクラスのアルファで、いくつもの事業を成功させては大金を手にしていたが、少々強引な部分もあって多くの人間に命を狙われていた。  そんな男がある日、一人のオメガを見初め項を噛んだ。するとそれまでファミリーの勢力拡大が一番だった男が、一転して番のオメガを最優先にするようになった。少々不利な案件でも番が欲しいといえば相手ファミリーを潰してでも手に入れるようになり、そのせいでマフィア界における男の評判はあっという間に地に落ちてしまった。  これには男の部下も黙っていられず注意を促したのだが、男は聞く耳を持たず部下を粛清した。それだけでなく、番のオメガの機嫌を損ねる者にも、家族ごと始末するという厳しい制裁を加えた。そうやって味方側の人間を、番の望むままに消していった結果、男のファミリーは衰弱し――――とうとう男は番のオメガ諸共、殺された。   最期に交わした言葉が、件の言葉だ。  男は今際の際、笑いながら語った。 『こうなることは予測できていた』 『けれど、自分で自分を止めることができなかった』 『アルファの本能は、身の破滅よりも番を選ぶ』  男は数少ない友人の一人だった。  ギフテットに生まれ、知能の差から周囲と気楽に会話も楽しめない人生の中、知識深い彼とだけは会話が弾んだ。ともに新規事業を手掛けた時は、これほどまで馬の合う人間がいたとはと感動を覚えたほどだ。  きっと男も同じように思っていてくれたのだろう。  だからこその忠告だった。   『ミキヤ、君もアルファだろう。だから言っておくよ。裏の世界で生きていきたいなら、決してオメガには手を出すな。もしも運命の番に出会ったなら、本能が反応する前に撃ち殺しなさい』  そう告げて、男は先に旅立った最愛のオメガの隣で息絶えた。 「オメガには手を出すな……か」  なんの因果だろう、まさか自分が運命の番と出会うことになるなんて。  最初は当然、酷く戸惑った。目の前に現れた霧人を前に、懸命に冷静と主導権を保ちながらもどう動くべきか、持てる知識をすべてを使って考えた。その時、友人の言葉も頭に浮かんだのだがーーーー。  結局、彼の忠告は無駄に終わり、綿貫霧人は愛染の唯一の弱点となった。 「あの時は、忠告を受け入れたつもりだったんですけどね……」  アルファの本能に勝つことができなかった。  正直、あの時ほど運命の番という文字に恐怖を覚えたことはない。なぜなら愛染が今日までに得てきた地位も名声も財産も、運命を前にした途端に塵同然となってしまったからだ。  きっと自分は有事の際、何よりも先に霧人の命を守るだろう。たとえ自分の命と引き換えになったとしても、迷うことはない。 「私を殺すのは貴方ですかね」  運命を見つけたからと易々と死を選ぶ気はないし、友人と同じ轍は踏まないつもりでいるが、最期を想像するといつも決まった光景が克明に浮かぶ。そして、そんな未来に恐怖も嫌悪を感じない。むしろ喜びに似た感情が胸の中で渦巻いていて、不思議な気持ちになるほどだ。  今生の終わりを迎える時、霧人の腕の中で目を閉じたい。そんなことを願いながら指先で愛おしい運命の頭を撫でていると、不意に胸元から声が届いた。 「……殺すとか、物騒なこと気軽に言ってんじゃねぇぞ」 「起きたのですか?」 「寝ろって言ったのに、いつまで経っても寝ないからだろ」 「それは失礼しました」  これは言うことを聞かないと機嫌を損ねそうだ。愛染は改めて身体をベッドに預けると、胸の中にある体温を慈しむように抱きしめた。   「……おい」 「なんですか? まだ気に入らないことでも?」 「お前みたいな散々悪事を働いた犯罪者が楽に死ねるとか思うなよ」 「おや、辛辣ですね」 「お前はいつか俺が捕まえて罪を償わせたら、二度と悪事が働けないようにしてやる」 「私から仕事を奪うということですか?」  その前に、いつか逮捕されるなんてことになれば、塀の外に出る機会などないのではないか。日本の法律はすべて頭に入っているが、自分のしてきたことを照らし合わせれば無期懲役刑でも生温い。そんなことは警察官である霧人にだって分かっているはず。それなのに服役後の話を出すなんて、どういうつもりなのだろう。愛染は考えが読めず、戸惑いを覚える。 「ああ。刑務所出てきたらお前の首根っこ捕まえて、誰もいない山奥にでも連れてく」  人のいない場所にいけば犯罪を起こす気にもならないだろうと、霧人は得意気に語る。 「まぁ確かに人がいてこその犯罪ですからね。ですが……」 「なんだ?」 「いえ、なんでもありません」  思い描いたことすらない未来のビジョンに、堪えきれない笑みが込み上げてくる。  まさか霧人が二人の将来を考えているとは思ってもいなかった。   「いいかもしれませんね、山奥でひっそり余生を過ごすのも」  霧人の髪に唇を寄せながら、より深く抱きしめる。腕の中にいた霧人は少しだけ苦しそうに身じろいだが、緩めてやることはできなかった。  おそらく今、顔を見られたら「なんて情けない顔してるんだ」と笑われるだろう。だが、そうなってしまうぐらい、霧人の言葉が心に響いたのだ。    霧人から与えられるものなら、道端に落ちている小石だって愛おしくなる。  これが運命と出会ったアルファの定めだというのなら――――。  ――存外、彼はあの結末でよかったのかもしれませんね。  右腕だった部下に殺され散った友人は、瞼を閉じる瞬間まで笑みを浮かべて最愛を見つめ続けた。そんなふうに最期の時まで触れられる距離でいられることは、何よりの至福ともいえるだろう。 「その時は貴方が私を攫ってくださいね」 「ああ……責任持って奪ってやるよ」  すべての犯罪からお前を。  そう語った後、すぐに睡魔に追いつかれたのか、霧人は胸の中で規則的な寝息を立て始めてしまった。まるで遊び疲れた幼子が突然眠りに落ちてしまったみたいな幕切れに、苦笑がこぼれそうになる。  あれだけのことを言って人の心を大いに揺さぶっておきながら寝落ちだなんて。 「――これで明日になったら覚えていないなんて、やめてくださいよ」  おそらく寝落ちの当人は「そんなこと言った覚えなんてない」と、しらを切ることだろう。だが生憎記憶はいい方だ、決して今の約束を忘れることはない。 「待っていますからね……貴方が迎えに来るのをずっと」  もう一度髪の毛に軽い口づけを落とすと、愛染は音を立てないようベッドサイドランプをオフにした。そして自分もまた束の間の休息に浸るべく、静かに瞼を落とした。    
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