37人が本棚に入れています
本棚に追加
1話:久々の定時帰り
警視庁の刑事という仕事は、出勤中は一日中出突っ張りで捜査に出ていると思われがちだが、意外にそうではない。事件発生直後から犯人検挙までは外に出ることが多いが、職務の八割は書類仕事だ。
凶悪事件を担当する警視庁捜査一課の刑事がそうなのだから、反社会組織が絡む組織犯罪の対応をする捜査五課もそれと同じ。いや、五課は一斉検挙に必要な情報収集のための我慢比べのような張り込みがあるため、一課よりは多いかもしれない。
そんな地道な張り込みで一日の職務を終えた霧人が報告書を提出すると、上司である係長から「今日はもう上がっていい」と定時上がりの許可が出た。係長いわく、近日中に大掛かりな捕物の予定であるため、休めるうちに休んでおけ、とのことだ。
「今日は早く上がれたな」
パソコンの電源を切って帰りの支度をしていた時、不意に声をかけられ視線を向けると、先輩であり相棒の斉藤が同じように退勤の準備をする姿が見えた。
「そうですね。こんなに早く帰れるのはいつぶりでしたっけ」
頭の中で記憶を巡らせるが、思い出せない。
「いつもに比べて早いってのはあったけど、ここで定時帰宅なんてほぼないからなぁ」
斎藤が苦笑を浮かべる。
「ということは、久しぶりに起きてるお子さんと会えますね」
「まぁな。顔を忘れられてなければいいけど」
斎藤はここずっと、子どもが寝た後に帰宅して、朝も目を覚ます前に出勤という日々を続けていた。最後にまともに会話したのは一ヶ月以上も前だという。だから心配なのだろう。
「大丈夫ですよ。お子さんにとって斎藤さんはかっこいいお父さんですから」
子どもは刑事である父を、ヒーローだと尊敬している
昔の霧人と同じように。
「捜査五課の刑事だった父親がいた俺が言うんですから確かです」
霧人の父も五課の刑事だった。霧人が子どの頃はやはり毎日忙しく、捜査対象者が動けば休日も返上で出勤していたため、顔を合わせて話せるのは月に数分あれば御の字だった記憶が強い。
だが、それでも顔を忘れたことなんてなかった。
「霧人がそういうなら安心だな」
「ええ。だから早く帰ってあげてください」
「おう。ってか、そういう霧人は早く帰ってどうするんだ?」
「俺は……飯食べてちょっと片付けして寝るだけですね」
「なんだよそれ、模範的なぐらい独身男の生活だな」
「模範囚みたいな言い方やめてくださいよ。仕方ないです、まんま独身男なんですから」
「それでも趣味とかないのか? 美味しいもの食べに行くとか」
問われ考えるが、パッと思い浮かぶものがない。
「趣味……そういえばないですね」
学生の時は同級生たちとスポーツをしたり、デカ盛りと呼ばれるものを食べに行ったり、剣道の道場に通うことが楽しいと感じていたが、今は仕事に追われる毎日で『好きなこと』なんて考える余裕すらない。
「おいおい、この仕事が忙しいのは分かるが、若いうちに趣味の一つや二つ見つけておかないとダメだぞ」
「そうなんですか?」
「当たり前だ。霧人はまだ二十代だから分からないだろうが、趣味ってものは歳をとればとるほど見つからなくなるもんだ。待ってれば見つかるなんて高括って仕事だけに時間使ってみろ。定年後に残るのは無味無臭の余生だけだぞ」
警察官は激務の部署が多いため、実際、趣味を見つけられず定年を迎える者が多い。そうなると退職後手持ち無沙汰になり、結果、人材派遣会社に登録して定年後も働くことになるらしい。斉藤はそういったOBたちをたくさんみてきたと語る。
「定年後もバリバリ働きたいっていうんなら別にいいが、ゆったりした余暇を過ごしたいなら趣味になるものを見つけておけ」
斉藤の忠告に頷きながらも、霧人はやはりどこか現実味を感じることができなかった。
定年後の生活と言われてもまだ三十年以上はある。斉藤が言うように歳を取れば取るほど行動力が鈍ってくることは理解できるが、だからと焦りを感じるかと聞かれればおそらくノーだろう。
遠い未来、自分はどんな生活を送っているのだろうか。
――今が殺伐としてる分、将来はゆったりとした時間の中で過ごしたい、かな……。
想像した時、霧人の脳裏に浮かんだのは雲一つない晴天の空と、燦々と降り注ぐ太陽、それと山々に囲まれた大自然の中にポツリと建つ木造の一軒家だった。
どうやら自分は田舎暮らしを望んでいるらしい。
しかし、それが自分が描く将来の光景だとして、果たしてその希望は叶うのだろうか。
もっと突き詰めて言うのなら、『あの男』がそれを許すのだろうか。
自然という言葉が微塵も似合わない、犯罪という暗闇に塗れたあの男が。
愛染幹也。
霧人の運命となった男。
「霧人?」
「え?」
「どうした。急にぼーっとして」
「あ、いや。別に……――というか、そういう斎藤さんは趣味あるんですか?」
斉藤は霧人が上司にも隠している秘密――運命の番と出会い、ベータからオメガに性種変異をしたこと――を知っている人間だ。とある反社会勢力組織への大規模家宅捜索の際に起こった別件の事件で、思いがけず性種を知られてしまったが、愛染を捕まえたいという強い願いを達成させるため、もう少し粘ってみろと秘密を守る約束を交わしてくれた。ゆえにオメガとしての未来も話せる相手ではあるのだが、霧人の相手が犯罪コーディネーターだとは知らないため、あまり込み入った話はできない。
「俺の趣味は、ありきたりだが旅行だな」
「斉藤さん旅行好きなんですか?」
「おう。ここに配属になってから頻繁にはいけなくなったが、それでもちょくちょく旅行には行ってるぞ」
警察官は簡単に有給を取ることができない職業のため、旅行なんて無理だと思われがちだが実はそうでもない。刑事にも夏と冬に纏まった休みがあり、その期間を狙って旅行にいく者も多い。斉藤もその一人らしい。
「そうなんですね、知りませんでした」
「霧人は旅行とかいかないのか?」
「俺はあんまり。警察官になってから高校時代の友達とも休みが合わなくなって、自然と連絡が遠のいたっていう理由もありますが、本音を言えば申請が面倒で」
「あー、確かにそれは面倒だな」
ここでは旅行にいくにも上司への許可と申請、様々な手続きが必要になる。斉藤のような旅行好きではない霧人にはそれが面倒に感じてしまい、休みは大抵実家に帰ってのんびりするか部屋の片付けで終わらせてしまうのだ。
「まぁ、でも旅行は行きたいと思った時に行けばいいんだし、趣味も見つけるに越したことはないが一日でも早くと焦ることでもない。きっと仕事にも慣れて落ち着いたら自然といろんなこと考えられるようになるだろう。それまで待ってもいいかもな」
「そうですね。今は仕事覚えることが精一杯っていうのが正直な話ですし」
「ま、なにか見つかったら教えろよ。相談に乗れることあったら乗るから」
「はい。ありがとうございます」
霧人を励まして、斉藤は笑顔を浮かべて帰って行く。その顔はすでに強面の刑事ではなく、子の父親のものになっていて微笑ましい気持ちになった。
そんな斉藤の背中を見送ると、霧人も久しぶりの休息を堪能すべく早歩きで五課の部屋を出るのだった。
・
・
・
不意に名を呼ばれたのは、警視庁の職員用出口に向かっていた時だった。
「綿貫君っ」
名を呼ばれ振り返る。と、背後からこちらに向かって走ってくる女性の姿が見えた。
「あれ……もしかして今野か?」
知っている顔だった。そして久々に見る顔でもあった。
「よかった、間に合った。後ろ姿見かけたから声かけたんだけど、綿貫君足早いから」
「ああ、悪い」
「ううん、大丈夫。それより久しぶりだね」
「そうだな。警察学校卒業以来か?」
「うん」
ようやく霧人に追いつき、隣に並んだ今野を見て懐かしい光景を思い出す。
今野は警察学校時代の同期で、男女混合班では同班だったため、一緒に行動することが多かった。
「綿貫君は今、五課だっけ?」
「そうだけど、よく知ってるな」
「当然だよ。私たち同期の中で一番出世してるのは綿貫君だもん」
今野曰く、他の同期たちは今もなお交番勤務を続けていたり、所轄で資料を纏めていたり、運転免許試験所で勤務してたりなど、勤務年数相応の場所で働いているらしい。だからか、いち早く警視庁で組織犯罪とはいえ凶悪犯と直接対峙する部署に配属した霧人は、出世組と思われているのだという。
「出世って……俺なんてまだペーペーもいいところだよ。そ今野こそ、ここにいるってこと本庁勤務だろ?」
「交通課の事務だけどね。ほら、私高校の時、経理の資格取ってたから」
事務能力を買われて本庁に呼ばれたのだと、今野は言う。
「資格っていう武器があるだけすごいと思うよ。俺が持ってる資格っていったら、警察でしか使えないものばかりだからな」
自分は今野のような、多くの業種で役立つ資格は持っていない。あるのは剣道の段に警察学校時代に取得した普通二輪の免許、無線の免許、それに卒業してから取った射撃や逮捕術の検定資格と、警察官独自のものばかり。だから純粋にすごいと思った。
「綿貫君は優しいね」
「え? 俺が? どうして」
「うん。だってほら、学校にいた時はさ、皆で、卒業したら悪い奴どんどん捕まえようって意気込んでたじゃない。私もそうだったけど、やっぱり警察官になったら現場に出て活躍するが一番って考えてたから、事務っていうのにちょっとだけコンプレックス持ってたんだよね。だから……ありがとう」
「いや、礼を言われることなんて……」
照れたように頭を掻く霧人を見て、今野がふふっと柔らかく笑う。
「そういえば今日は珍しく定時上がりなんだね」
「それも、よく知ってるな」
「あー、ほら、私のところの部署は年度末とかじゃないかぎり定時上がりが多いけど、この時間に綿貫君のこと見たことなかったから忙しいんだと」
「ハハッ、まぁ忙しくないって言ったら嘘になるかな」
「それはお疲れ様だね。あ……じゃあさ、せっかくの早上がりだし、もしこの後予定とかなかったら、一緒にごはん行かない?」
「え?」
まさか突然食事に誘われると思っていなかった霧人は、驚きに思わず言葉を止めてしまう。
「あ、もしかして彼女とかいた……?」
すぐに返答をかえさない霧人を見て、今野はなぜか少し不安そうな顔をする。
「いや……彼女はいないけど……」
言いよどむ霧人の頭に、瞬間的に浮んだ顔は愛染だった。
あの男は当然ながら霧人の『彼女』なんかではない。恋人かと聞かれてもYESと即答もできない相手だ。けれども愛や恋という言葉が届かないほど深い部分で繋がっている相手。
ただ、目の前にいる今野にそれを説明しても、ベータである彼女は理解が追いつかないだろう。
それゆえ、どう説明すべきか迷ってしまった。
「……綿貫くん?」
「いや……恋人とかそういうのはいないんだけど、今日は久々に時間ができたから親に顔見せようと思ってて。ほら、俺んところ親父が早くに死んで兄弟もいないから、実家には母親一人しかいなくて……」
迷う中、それは咄嗟に出た嘘だった。しかも自分でも驚くほど自然に出していた。
なぜだろう、と考えると浮かんだのはやはり愛染の顔で。
――俺は無意識にアイツを選んで、彼女を遠ざけたのか……?
もしも数ヶ月前の、普通のベータだった頃の自分だったら、今野からの誘いを嬉しく思ったはずだ。配属されたばかりの頃、五課の先輩たちから「ここは激務すぎて外で出会いを求める時間すら取れない。だから、もしいい感じの女性が目の前に現れたら、躊躇わず突っ込んでいけ。じゃないと婚期を逃すか見合いに頼るしかなくなるぞ」と言われていて、霧人自身も肝に銘じていたからだ。
だけれども、今はなんとも思わない。いや、思えない。
理由は言わずもがなだ。
「ごめん。仕事に慣れたら作るから、その時は同期の奴ら誘って皆で飯行こう」
「あ……そっか。うん、そうだね。皆で行こうか」
一瞬、何かを悟ったような表情を見せた今野であったが、すぐに笑顔に戻って会話を繋げる。
そのまま何気ない話を続けて歩いた二人は、庁舎の出口に辿り着いたところで帰る道が別方向だといって別れた。本当は霧人も今野と同じ方向の電車だったが、気まずかったから再び嘘を吐いてしまった。
「……はぁ」
今野を見送って一人になった途端、肺の奥から長い溜息が溢れた。
たった数分の会話だったが、どっと疲れたのはやはり嘘を織り交ぜてのものだったからだろう。とはいえ、元来器用ではない霧人の嘘なんて見破られている可能性のほうが高く、きっと今野はもう滅多なことがない限り話しかけてはこないことがなんとなく予想できた。
でも、それでいい。
自分にはあの男以外の出会いは必要ないのだから。
そう自分を納得させた時、不意に胸ポケットの中にあるスマートフォンが震えた。仕事が入ったのだろうかと慌てて着信に応じると――――。
『こんばんは、霧人。ご機嫌はいかがですか?』
耳に届いた声は、予想もしていない男のものだった。
まさか電話がかかってくるとは思わなかった霧人は、一瞬返答を失ってしまう。
『何を驚いてるんです。私から突然電話がかかるなんて、今に始まったことじゃないでしょう』
「いや、そうだけど……」
まるで一人になったところを見計らったようなタイミングで、二週間以上も会っていない人間から電話がかかってくれば、誰でも驚くだろう。
「なにか用か?」
『いえ、今夜は久しぶりに早く帰宅できるようですから、声をかけたまでですよ』
「なっ、お前、なんで知って――――」
途中まで言いかけて、すぐにそれが愚問だと気づいた。
そうだ、この男の情報網は恐ろしく広いのだった。きっと今、霧人がどこにいるのかも、今日の業務がどんなものだったかも、警視庁内に潜ませた間諜からの情報ですべて把握しているに違いない。
「チッ……それで? 電話で世間話でもするつもりか?」
『それも面白そうでね。では、貴方が愛らしい同期の女性からの誘いを断った話でも聞かせていただけますか?』
愛染の含みのある台詞から、ほんの数分前の今野との会話の内容もすべて見られていたのだと知り、ふつふつとした苛立ちが募る。
「……お前のそういうところ、本当に腹立つ」
『おや。お気に召しませんか? 私は貴方の本心が知れて嬉しかったのですが』
「本心? ハッ、一体なんのことだか」
恐ろしく頭が回るこの男のことだ、きっと今野の誘いを断った時の様子や言葉、そして帰路と逆方向に足を進めたことから霧人の思考を読んだのだろう。どこまでも腹が立つ。が、ここで否定をしたところで言葉では勝てないのが分かっているので、霧人は無視を決め込んだ。
『ふふっ……まぁ、今日は気分がいいので、これ以上は追及しないでおきます』
「……用がないなら切るぞ」
『そんな冷たいこと言わないでください。どうでしょう、おせっかくの夜なんですから私と一緒に食事でも楽しみませんか?』
霧人のために美味しいと評判のレストランに予約を入れたと、愛染は告げる。
「――――薬ならまだある」
霧人はなるべく声と感情を押し殺して、端的に告げた。
愛染が霧人を食事に誘う時、ほとんどの場合において食べ終わってさようなら、にはならない。その後は緊急事態でもない限り、無駄に広すぎるホテルに連れて行かれてベッドに沈められるのだ。
そして事後、ベッドの中で霧人のために用意された抑制剤を手渡される。
まるでドラッグを求める娼婦のようで実に不本意なのだが、愛染と出会ったことでオメガに変異してしまった霧人が警察で働き続けるためには抑制剤は必要不可欠ゆえ、文句がいえない。だが、前回渡された分の処方はまだ残っている。会う必要などないはずだと返すと、愛染は通話の向こう側で小さく笑った。
『知ってますよ。ですが最近、仕事が忙しくてジャンクフードや安い即席麺ばかりだったでしょう? まだ若いとはいえ、たまには栄養のあるものも食べないと身体がもちませんよ?』
「俺が倒れようが、お前には関係ないだろ」
『また、そんなことを言って……私の嫉妬を煽りたいのですか?』
「嫉妬って、誰にするんだよ」
『貴方自身にですよ。いくら貴方のものであろうが、その身体は私の運命です。粗末に扱って許されるものではありません』
「な……んだよそれ……」
『当然の話です。それともまだ自分のアルファが、どれほど深い執着を持っているのか理解できていないのですか? だというなら、もう一度こと細やかに教えて差し上げましょう』
突然、甘さを消した声で言われ、霧人はハッと瞠目した。
そうだった。愛染は以前から勤務中の怪我にはうるさく、些細な傷でも過剰なほどの手当てを受けさせられた。と、そこまでならまだいいが、続けて「怪我を負うなんて、私のオメガだという自覚が足りません」と叱責されたうえ、仕置きだとベッドの上で散々啼かされた。曰く、アルファという生き物はオメガに対して異常なまでの庇護欲が湧くらしい。
確かに自分も、愛染が怪我をした時は心臓が締めつけられるような強い不安を覚えたので理解はできる。
が、だからと理不尽になことをされるのは腹が立つしごめんだ。
「……分かったよ、行けばいいんだろ」
『分かってくださったのなら結構です。では、そのまままっすぐ大通りに出てください。タクシーが待たせてあるので、乗ってくださるだけでいいです』
どうやら最初から断る選択肢はなかったらしい。どこまでも用意周到すぎる状況を前に、霧人はおもわず天を仰ぎながら溜息を一つ吐くと、何も言わずに通話を切ってゆっくりと前に足を進めるのだった。
最初のコメントを投稿しよう!