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ツンっとした薬液の匂い。
何とも独特な香りである。
手慣れた様子で夜子は準備に取り掛かる。
「周りのもの触らないように気をつけて!薬品が混ざると現像できなくなっちゃうから」
「はーい」
写真の現像作業というのは時間との戦い。地味に神経を使う物である。
攪拌する時間も精密に計算されている。薬液にさらす時間にも神経を使う。
自分の思い通りに焼けるようになるまでに何度も何度も失敗した。
しんっとした空間に水の滴る音だけが響く。
暗室となっている現像室には今、夜子と律の2人きりだった。
作業を進める夜子の眼差しは真剣そのもの。
その夜子の横顔を、律が何をするでもなく眺める。
写真にかかると夜子の集中力は恐ろしい物へと変わる。
周りの音が全く聞こえなくなり、盲目と化すのだ。
現に今も律からの視線に気づいていない。
ーー似てんなぁ…この目。
筆を持ちキャンバスに向かう円の瞳を思い出し、苦笑する。
円は絵を描くことを精神統一だという。円にとって絵を描くということは趣味でもなく息抜き程度の物でもない。
己の精神を研ぎ澄まして己を追い詰め、己を理解すること。
正にその円と同じ瞳をしている。
夜子にとっての写真とは、何だろうか?
「… …」
夜子のジャマをしないようにと、そばの椅子に座りじっと見つめた。
「ほら…キレイに出てる」
初めて夜子が律に視線を向ける。
「へぇ。…なに?海?」
「雲海!」
それ自体は、光の色が反転した状態で…正直何が写されているのか分からない。
「…雲海ね」
「ふふっ このネガが、写真の卵なの」
夜子は愛おしげにそのネガを眺める。
母親が我が子を愛おしむような…
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