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「ひ、」
漏れ出た悲鳴ごと口を押さえつけて、僕は呼吸を落ち着かせる。こういうときに下手に絶叫してしまうとろくなことにならないと、長年の経験からよくわかっていた。
女はベビーカーを押していた。誰も乗っていない空のものだ。ギイギイと軋んだ音を発するそれを押しながら、女はぎこちない動きで店内に入ってきた。
僕は逃げ出すこともできず、近付いてくる女を迎え入れる。カウンター越しに対峙した女の体からは、雨の匂いに混じって魚が腐ったような生臭さが漂っていた。おまけに男の、それも同年代の中では一番長身な僕を見下ろせるほど背が高い。
最悪なことに、俯いているせいで彼女の顔はよく見えた。べっとりと顔に張り付く黒髪の隙間から、どろりと濁った目が覗いていたのだ。
僕が目を逸らすこともできず硬直していると、女の手が伸びてくる。迫りくるそれを、僕はどこか他人事のように眺めていた。
だけどそれは、僕の前に強引に割り込んできた体によって制される。
「──なにをお求めですか」
固まったままの僕をさりげなく庇って、クロが穏やかに尋ねた。女の髪から零れ落ちた雫がその顔を濡らしていたが、クロは少しも動じる様子がなかった。
僕はクロの後ろで、息を殺して成り行きを見守る。やがてクロの顔から雫が滴り落ちたころ、紫色になった唇がにちゃにちゃと音を立てて開いた。
「あ゛か゛ち゛ゃ゛ん゛を゛、く゛た゛さ゛い゛な゛」
赤ちゃん、と思わず呟きを漏らす。
耳障りなほどノイズまみれな要望に、クロは薄っすらと笑って、承知いたしましたと答えた。
「それなら、この子などいかがでしょう」
そう言ってクロが取り出したものに、僕は目を剥く。それは今朝、僕を起こしたあのミルク飲み人形だったのだ。
「ク、クロ!?」
思わず声をあげれば、目で制される。不安なまま女を盗み見ると、彼女は少し黙り込んだあと、クロに向かってゆっくりと両手を差し出した。
クロは女に人形を渡そうとしたが、その手が不自然に止まる。人形が服の裾を掴んだのだ。まるで、まだ離れたくないというように。
クロは目を瞬かせて、それから優しい声音で人形に語りかける。
「大丈夫。離れるのは悲しいけれど、きっと彼女と居る方が、君は幸せになれる」
人形の手が少しだけ緩む。クロは小さな頭を、一度だけ撫でた。
「この人が君のお母さんになってくれる。君を手放したりなんかしない。もう、寂しくなることなんてないよ」
その言葉を最後に、人形はクロから手を離した。
人形はまだ名残惜しそうにクロを見ていたが、意を決したように振り向いて、女の手の中に納まる。
「あ゛あ゛、わ゛た゛し゛の゛」
「──わたしの、あかちゃん」
女は人形を抱き締め、嬉しそうに囁いた。それはもう先程のノイズ混じりのものではなく、あたたかい”母親の声”だった。
女は人形をベビーカーに乗せ、会釈を残して店を出ていく。子供をあやす母親の声と、くすくすと笑う赤ん坊の声が、どこまでも響いているのだった。
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