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翌朝、僕は頬に触れた感触で目を覚ました。
だけど僕を起こしたのは硬い人形の指なんかじゃなくて、クロの柔らかな指だった。
「シロさん、起きて」
からかうような声音に目を擦る。起き上がってみると僕を見下ろしていたのはクロの顔で、そこにはやっぱりあのミルク飲み人形の姿はなかった。
たった半日しか一緒に居なかったのに、僕は人形との別れを寂しく思ってしまっていた。昨日あの子が乗っていたところが妙に軽い気がして、僕はぼんやりしたまま胸元を撫でる。
そんな僕の心情を察したのか、クロは励ますように僕の胸元を叩いてきた。
「のんびりしてるところ悪いけどさ、もう起床時間を過ぎてるよ」
「……あっ!」
クロの指摘に慌てて飛び起きる。そういえば今日は一限から授業があったのだ。
時計を確認すれば電車の出発時刻が迫っていて、僕は大急ぎで身支度をする。
「間に合うといいね。いってらっしゃい」
「他人事だと思って! いってきます!」
余裕顔でひらひらと手を振るクロに見送られ、僕は玄関を飛び出す。
はたして無事間に合うだろうか。神に祈りながら全速力で走っていた僕は、しかし前からやってきたものに思わず足を止めてしまった。
それはベビーカーを押して歩く女性の姿だった。長い黒髪を揺らしながら進む女性は、ベビーカーの中で笑い声をあげる赤ん坊に、柔らかい声音で語りかけていた。
綺麗で優しそうな母親と、ふくふくとした可愛らしい赤ん坊。なんの変哲もない、どこにでもある親子の姿。なのに僕は、どうしてもその二人から目を離すことができなかった。
棒立ちになっている僕の横を、ベビーカーがゆっくりと通り過ぎる。
たなびく黒髪は、微かに雨の匂いをまとっているのだった。
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