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分かれ道立ちし少年
日は昇り、風は吹く。
あの薫風は、デスク上に肘でたてつけた店主の頭を、満たしている。
ぼーっと、している。
店主は「ぼーっと」の長い「ー」この部分が、
彼の見つめるピンボケした入店の鈴までのように長い。
時計の針がカチッカチッと歩幅を一定に、一日数万歩の帰り道を歩いている。
その針は、きっと少年の帰り道を歩いている。
針の歩幅は、大きく。速さは、自然と胸が張ってしまうぐらいの速さだ。
だが、走ってはいない、マラソンでも、
ましてや競歩でもない。
ただの帰りの早歩きだ。だがその歩みは、何かを急かしているようにも見えるし、
明日の風が背中を後押しして、希望に進んでいるようにも見える。
兎に角、プラスだけを含んだ、盛沢山のものに板挟みにされている歩みだ。
店主はクロノスタシスになって、少年の帰りを待っている。
店主にとって、少年の家路の終点は古本市らしい。
店主は、短針を見た。針はちょうど、帰り道の中間地点にいるようだ。
そしてまた、視線を入店の鈴に戻そうと思うやいなや、
目に入れるはずだった、視覚情報よりも先に、鈴の音が耳を劈いた。
峡谷を鳴らす風の如く、
本を抱えた昨日の少年が、今日の風と、共に新古を吹かす。
店主は、今までの冗長的な表現をかなぐり捨てるかのように、少年を歓迎した。
「よう!約束通り今日も来てくれたのか!」
彼はやや興奮を抑えているつもりらしい。
少年に愛を抱くことを憚っている。
「はい!今日はこれを返すことと、新しい本を借りに来ました!」
「あげたつもりだったんだがな、
まぁ返してくれんならそれでいいんだけどよ」
「僕にはとても、もらえるような代物じゃないです、だから借りて読むことにしました!」
なんて律儀な子だろう。店主は素直にそう思った。
「そうだ、今日も自由に借りていっていいぞ」
「ありがとうございます!」
少年は、古本のビル群を目の前にして、改めて圧巻されている。
まるで、その都会的なスモッグにヤられた経済特区の住民といったところか。
鼻呼吸を意識してしまうほどの、古本特有のにほいにヤられた少年は、
その嗅覚を頼りに、今日の晩飯を漁る野良犬のように、本棚の路地裏へと入り込んだ。コンクリートジャングルに地図はない。少年にとって前人未到のアマゾンに入り込んだのである。本棚の入り組んだ路地は迷宮となり、少年の探究心を瞬く間に育て上げた。本のラビリンスには、少年がそそられるような、宝や罠がもちろんある。少年は本の主人公となって、その迷宮に挑んでいる。だがこの本の主人公には,
都合のいい補正なんていうものは、ついておらず、まんまと迷宮の罠にはまることになった。少年の歩みは止まらない。何か、得体の知れない者に板挟みにされている。このとき、すでにもう少年の下山は始まっていた。
「すごいなぁ、店主さんの店は。」
店主は二十歳をこえている。年齢確認で「はい」を余裕でおせる年である。
「へぇー、こんな珍しい本があるなんて!」
店主は、男子だったら一回はある、家族から卑猥を隠匿することを経験している。店主はパソコンのファイルにいかがわしいフォトグラフィックを隠居させたこともある。そして、同様に店主は自分の店にそれを置いている。
「ん?こんな雑誌みたいのあったけ?」
もちろん、店主はそういうものを置かないという、選択肢もあったが、
店主は人間である。非道なことは、そんな非人道的なことはできなかったのである。店主にとって、それは自分の家の玄関前に赤子を置かれたと同然なのである。人から人へ、しょうがなくそれが、行き着いた孤児院が店主の古本屋だったのである。そんな、かわいそうなそれを店主は放っておけなかった。不憫に思ってしまった。他の本屋に預けても堂々巡りだと思った。だから、店主はそんなセカンドオピニオンを自分の店で請け負うことにした。そして、それは古本という氷山の奥深くに、まだ眠り続け、一人の少年によって起こされまいとしていた!
「...春画...聞いたことあるな...なんだろ...」
少年の心臓のBPMは指数関数的に上がっていた。
「え、こんな、女の人の...」
1ページ目から、目、鼻、口、と体を支配され、動けなかった。
少年の体温は、巷の疫病と同じくらいの熱さだっただろう。
「暑い!病気かな?なんだろう、この本、すごく興奮する!」
何回もページをめくる音と、病に侵されたが如く、荒い、鼻息と過呼吸が
迷宮のとある場所で、響き渡る。少年の官能は呼び覚まされしまった。
少年のフェティシズムは、あるべきエロスの覚醒を、今、終えたのである。
「借りたい!でも、店主さんに見つかりたくない!他の人にも!」
少年は、今すぐ借りたいと思った。それはとても強い意志だった。
だが、それと同時に、罠にはまって手に入れた宝を、誰にも知られたくなかった。奪われたくなかった。
「でも、どうしよう。」
バレずに借りることは、少年の良心の呵責に苛まれることだった。
少年は、今、峠への分かれ道に立っている!
上の道はあった、まだ戻れた。
だが、悲しいかな!
少年は下りの道を選択してしまった!
少年のジレンマが導いたその決断とは、
それは、それを借りていなかったことにすることだった。
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