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朝よ来ないで、と夜の中で道草したくなる三時前。
静まり返ったいつもの部屋に、帰宅する。
僕が寂しくないようにと、リビングのルームライトの灯りが今夜も灯っている。
『おかえり』と先に寝ている彼女の伝言みたいで、橙に照らされた空間が好きだ。
トレンチコートをハンガーに掛けて、リュックサックをフックに掛けて、テーブルにスマホを置く。
暖かな日差しには荷物になるトレンチコートだけど、花冷えの風が頬を冷やす夜に歩く僕には必需品だ。
ロッカーに入れていても、様々な料理の匂いや客が楽しげにグラスを傾けた隣で漂う煙草の香りが、なぜだかいつも染みついている。
『お疲れさま』と自分を労うように、トレンチコートにファブリックミストを振り掛ける。
これでよし。
でも、あと一つ。シャワーを浴びる前にすることがある。
足音が響かないように、歩をゆっくりと進めて彼女の眠るベッドに行く。
寝室のドアを開けると、毛布の膨らみがゆっくりと動いていた。
僕は、眠る彼女の呼吸を見るのが好きだ。
喜怒哀楽の感情が見える呼吸も、僕だけに見せる本能に揺れる呼吸も好き。
だけど、すやすやと寝息を立てる彼女の呼吸が一番好きだ。
声も感情も見えないけれど、生を感じる儚い揺らめきが愛おしくて。
でも、ときどき不安になる。
眠り姫が、夢の中で悪い魔物に連れていかれたらどうしよう。
夢の中が心地よくて、このまま目覚めなかったらどうしよう。
眠ることが好きな彼女だけど、僕が仕事の日に眠る前に送ってくるメッセージはどこか寂しそう。
『おやすみ』と『気をつけて帰ってきてね』のメッセージを締めくくる気丈なふりをした笑顔のウサギのスタンプから、スマホを置いてベッドに潜る彼女の表情が想像出来て胸が痛む。
だから、『ごめんね』と『ただいま』の意味を込めて、彼女の呼吸を眺める。
そっと彼女の頭を撫で体温の温かさを安心材料にして、仕事の疲れをシャワーで流す。
湯船でふーっと一息ついたら、バスルームを出て濡れた肌をタオルで包む。
寝間着のスウェットを着て、ドライヤーで髪を乾かす。
センター分けにセットした前髪から、部屋の中の前髪に戻った僕が鏡に映る。
脱衣所を出てキッチンに向かい、ガラスのコップに水を注ぐ。
冷蔵庫に持たれながら、ゆっくりと喉を鳴らす。
ふーっと一息ついたら、水で濯いだガラスのコップを水切りラックに置いた。
スマホを片手に持ち、リビングの橙の灯りを消す。
ベッド脇のサイドテーブルに置かれた彼女のスマホの隣に、僕のスマホを置く。
彼女を起こさないように、そっとベッドに潜り込む。
ほかほかと温かいベッドの中で、彼女の腕が僕の腕に触れる。
そして、眠気眼の彼女が『おかえり、マモルくん』と微笑んだ。
『ただいま、美来ちゃん』と、繋がった毛布の中で抱き寄せた。
ああ、僕はわがままだ。
眠る彼女の呼吸が一番好きなんて言ったけど、眠たそうな瞼でふっと笑う彼女の呼吸も同じくらい好き。
生きていると感じる君の温かな指先と死に近い冷えた僕の指先を絡めて、今夜も眠りにつく。
彼女が目覚めたら、今日の帰り道の話をしよう。
公園の桜が風に舞ってきれいだったよ。
今夜は一緒に桜を見に行こう、って。
夜に舞う花びらと散りゆく桜を眺める君を、あと何度見ることができるのだろう。
そんなこと思いながら歩いた帰り道を上書きしたいから、なんて弱気な本音は言えないけど。
群青から軽やかな青に近づく空にしばしの別れを告げる月とともに、僕は目を閉じた。
大好きな、彼女の呼吸を感じながら。
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