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部屋の広さに反して、飾られた絵はたったの一枚。
四方を白い壁に囲まれているせいか、絵だけがそこに浮き上がって見える。
「娘……」
プレートに刻まれたタイトルを読み上げる。
亡き父が最期に手掛けた作品。だが残念ながら、この絵は未完だ。
そこには、「娘」と思しき人物は描かれていない。
それどころか、人の姿すらない。
描かれているものと言えば、暗い部屋の中を舞う一匹の白い蝶――
蝶が身を置く部屋には見覚えがある。
薄暗くぼんやりと描かれているが、今もそのままにしてある、父のアトリエだ。
記憶にある父は、いつも絵を描いていた。
二階の一部屋を父のアトリエにしていたが、夕食の準備が出来ても中々下へ降りてこなかった。
すっかり冷めた頃にやっと降りてきて、かきこむようにして食べると、すぐにまた二階へ上がってしまった。
そんな父を、母は困ったような、それでいて見守るような優しい眼差しで見つめていた。
傍らで見ていた私はと言うと、会話らしい会話も思い出せない程、父との想い出は無きに等しい。
それでも小さい頃は、父に構ってほしくてアトリエに忍び込んだものだ。
窓際にイーゼルを置き、父は何かを一心不乱に描いていた。
広い背中が忙しなく動いていて、近づくまでもなくその様子が子供心にも見て取れた。
声をかけることが出来ずに幼い私はそっと部屋を出た。
心の奥底に眠っていた寂しさが込み上げてきて、はっと現実に引き戻される。
私はもう一度父の絵を見た。
日の目を見る筈のなかった絵だが、未完でも構わない、と叔父が自分の美術館に飾ってくれ、今こうして目にすることが出来ている。
「娘……」
この白い蝶が「娘」の化身だとでも言うのだろうか。
私は首を振る。
どちらかと言うと明るい色を好まない私は、今日も茶色に黒といった地味な取り合わせだ。
そもそも、タイトルにある「娘」が私を指しているとも限らない。
溜息をひとつ落とし、展示室を後にする。他の絵も見てまわってから、私は美術館を出た。
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