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序
「なぁ、聞いたか」
割り当てられている取調室の扉を中から細く開けた瞬間、ロビーから声をひそめて交わされる会話が漏れ聞こえてきた。
「今度うちに来る事務官、冬野のヤツと仕事がしたいって、自分から希望を出したらしいぞ」
「うそでしょ。マジですか」
知らないところで自分が話題に上がっていて、紳は取調室から出るに出られなくなった。
紳の話題を出したのは、紳と同じ検察官の平久という男だった。紳の同僚であり、十年のキャリアの差がある先輩検事でもある。
一方、「うそでしょ」と彼の発言に目をまんまるにして相づちを打ったのは、紳のパートナーである検察事務官だ。検察官と事務官は二人一組で仕事をするのが基本だが、彼は今週いっぱいで紳のもとを離れ、別の支部へと異動になることが決まっていた。
「てことは、女性ですか? 冬野さんのファン?」
「いや、男だ。高卒で、まだ二十歳らしい」
「へぇ、男か。じゃあ、あのキレイな顔が目当てってわけでもなさそうですね」
「あぁ。目的はよくわからんが、あの冬野につきたいなんて、相当な変わり者に決まってる」
「ですね。俺、もう絶対イヤですもん。厳しいし、会話ないし。なんなら目も合わないんですよ、冬野さんとは」
「俺だって一緒だよ。あいつは他人とコミュニケーションを取る気がねぇんだ。なんでも自分一人でやりたがる」
「実際に一人でなんでもできちゃうところが恐ろしいですよね。あの人が優秀な検事だってことは認めざるを得ませんよ」
「まぁな。なんにせよ、異動になってよかったじゃねぇか。これで晴れて、おまえは冬野の事務官をやめられる」
「ほんと、よかったです。異動先が都外じゃなければ最高だったんですけどね」
ハハハ、と笑い声を立て、二人は揃って退庁した。午後七時。足音が遠のき、ロビーはしんと静まり返る。
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