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「それで」
照れているのが自分でもわかり、紳は目を伏せ、努めて素っ気ない口調で言った。
「怪我の具合は?」
「あぁ、たいしたことないみたいですよ。撥ねられた時に頭打って、一瞬意識が飛んじまってたんで、念のためCTを撮りましょうって話にはなったんですけどね。軽い脳しんとうだろうって医者は言ってたから、写真異常がなければしばらく安静にしてるだけでいいみたいです」
「それならいいのですが、いったいなにがあったのですか。どういう状況の事故だったんです?」
「よくある接触事故ですよ。家を出るのがいつもより少し遅れちゃってね。やばいやばいと思いながら走ってたら、交差点を左折してきたワンボックスに突っ込まれたんです。向こうも急いでたみたいでかなりスピードが出てたから、よけきれなくて」
ハハハ、なんて笑いながら、夏輝は軽い調子で話す。頭を打ったという割には元気そうで安心したが、状況が状況だけに心配ではある。
「頭部以外の怪我は?」
「吹っ飛ばされた直後の記憶が曖昧なんで確かなことはわかりませんけど、なんとか受け身を取れたみたいで、からだは軽い打ち身とかすり傷がついただけで済みました。気づいたら救急隊の人たちに囲まれててビビりましたよ」
「笑いごとじゃありません。だいたい、遅刻ギリギリという時間でもなかったのに、そんなに焦る必要もなかったのでは?」
「そりゃあ焦るでしょ。早く職場に着けば、それだけ早く冬野さんに会えるんだから」
まじめくさって微笑まれて、返す言葉に詰まる。最初の頃は慣れないと感じていた夏輝のまっすぐすぎる眼差しも、今じゃこの若々しく輝く瞳の存在があることに安心感すら覚える。
「……これからは、もう少し気をつけてください」
精いっぱいの返答だった。ありがとうと素直に伝えられるまで、あとどれくらい時間がかかるだろう。
看護師が「小松原さーん」と呼びに来た。検査結果を知らされるらしい。
「先に戻っています。部長には僕から伝えておきますから」
「えぇ、一緒に来てくれないんですか」
「子どもみたいなことを言わないでください。検査結果を聞くだけなんでしょう?」
「そうですけど、一人じゃさみしいじゃないですか」
さみしい。一人じゃ、さみしい。
隣に夏輝がいてくれることのあたたかさを知ってしまうと、その言葉を無下に扱うことが途端に難しく思えてくる。一人取り残されることの痛みは、紳が一番よくわかっているのだ。
お願い、と夏輝は媚びるような目をしてくる。負けを認め、紳はため息交じりに言った。
「一階のロビーで待っています」
「やった。ありがとうございます」
スキップをするみたいに軽快な足取りで、夏輝は看護師の後ろをついていく。二人の影が消えるまで見送ってから、紳はロビーへと足を向けた。
よかった、本当に。明日からまた、彼と一緒に仕事ができる。
彼と出会ってから今日まで、いくつのことを学んだだろう。
家族だけじゃない。家族以外に大切な人ができると、その人を失うことも怖くなる。なくしたくないからこそ、もっと大切にしようと思える。誰かと生きていくというのは、そういうことだ。
一つずつ新しいことを知っていく。新鮮な驚きに満ち、彼の幸せを願いながら過ごす毎日は、世間を恨み、閉じた世界にいた頃とは比べものにならないくらい楽しい。一歩一歩、生まれ変わった自分に近づいているような気もしている。
まだまだ彼と一緒にいたい。
心の底からそう思えていることがまだ少し信じられないけれど、夏輝なしじゃ生きられなくなりつつある自分のことを、紳は嫌いになることができなかった。
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