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「犯人だと思い込んでいた?」
はい、と紳は静かにうなずいた。
「覚えていますか。先ほどの取調べで、良知さんは『被害者に腕を掴まれ、振り払おうとした』と証言しました。そのはずみで被害者がバランスを崩して転倒し、頭を打ったのだと」
「えぇ、覚えています。現場から逃げたのは、事件が起きる瞬間を藪下さんに見られて動揺したからだって警察には話したんでしたよね」
「そうです。この良知さんの証言は、藪下さんの目撃証言と食い違っています。藪下さんの言う『突き飛ばす』という行為は……」
紳は素早く足を動かすと、夏輝の胸もとに両腕を突き出し、ドン、と強く前に押した。
「うぉっ!?」
「一般的に、こういう動作のことでしょう」
突然紳に突き飛ばされた夏輝は、二、三歩後ろへとよろめき、目を丸くした。紳は顔色一つ変えず、デモンストレーションを続ける。
「一方、『掴まれた腕を振り払う』というのは」
紳は夏輝の左手を取って自らの右腕を掴ませ、力いっぱい振りほどいた。
「わかりますか。二つの動作は、一目見てわかるほど大きく違います。仮に良知さんの証言が真実なら、藪下さんの目撃証言は間違いだったということになります。本当は突き飛ばしたのではなく、単純に掴まれた被害者の腕を振りほどいていただけだった。では、なぜ藪下さんは良知さんが被害者を突き飛ばしたところを見たと証言したのか」
「そうか」
ようやく夏輝にもピンとくるものがあったらしく、表情がスッキリと明るくなった。
「逃げたからだ、良知さんが」
はい、と紳は同意を与えた。
「おそらく藪下さんは、あとになってこう思ったのでしょう……もしもこれが単純な事故だったなら、加害者の男性は逃げたりせず、自分と一緒に被害者の救護に当たるべきだったのではないか、と。しかし良知さんは逃げてしまった。その軽率な行動こそ、藪下さんに『良知さんは男を突き飛ばして怪我をさせた犯人だ』と強く思わせることになった原因だったわけです。そう考えれば、いろいろと納得がいくと思いませんか」
被害者の大げさな証言はさておき、良知と藪下の証言の食い違いについては、双方に嘘はなかったと結論づけることが可能になる。
「事件当時の藪下さんは、目の前で起きた非常事態に大きく動揺し、混乱されていたはずです。良知さんと被害者がもみ合っているところを目撃した直後、被害者が突如転倒し、頭部を強打。良知さんはそのまま逃走、現場に残された藪下さんは自分が被害者の面倒を見ざるを得なくなった。めまぐるしく移り変わっていく事態の中で、藪下さんは必死になって恐怖や不安と闘いながら被害者の無事を祈り、救急隊と警察の到着を待った。そうしているうちに、最初に目撃した男二人のもみ合いの場面はどんどん過去になっていった。彼の頭の中に残ったのは、血を流して倒れている被害者を見捨てて逃げていく良知さんの姿だけ。あいつは男に怪我をさせて逃げた。やましいことがあるから逃げたんだ。あいつが加害者。あいつが犯人。あの男は、被害者を突き飛ばして大怪我を負わせた悪いヤツだ――。本当はそんな場面を見たわけではなかったのに、藪下さんの脳が勝手に、そうと決めつけてしまっているのですよ」
認知バイアスと呼ばれる思考の偏りの一種に、『アンコンシャス・バイアス』というものがある。『あの人の血液型はA型だから、几帳面な人だ』など、思い込みや無意識の偏見によって結果を自分勝手に決定してしまうことをさす。
事件当時の藪下も、おそらくこのような思い込みによって良知が故意に被害者を傷つけたと考えたのだろう。『良知さんは被害者ともみ合っていた。怪我をしている人を見捨てて逃げたのだから、良知さんが故意に怪我をさせたに違いない』。極度の緊張と不安の中にあった藪下がこのような思い込みに囚われてしまったとしてもおかしくなく、藪下を責めることは誰にもできない。彼は目撃者として当然にやるべきことをしただけなのだから。
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