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 ゆっくりと取調室の扉を開け、紳はひとけを失ったロビーへと出た。  東京地方検察庁Q支部。そこが検察官である紳の職場だ。『検察官』ではなく『検事』と呼ばれることもある。  警察によって逮捕された被疑者に対し、司法による裁きを受けさせる。紳の仕事は、被疑者の犯した罪に見合った量刑を考え、裁判所に対して申し立てることだ。  量刑を決定するにあたり、警察と同じように被疑者の取調べをおこなったり、事件の関係者に話を聞いたりする。その際、彼ら検事のパートナーとして捜査に同行するのが、検察事務官という国家公務員である。  二人で一つの事件を追う、検事と事務官。その相性が仕事の出来を左右することは言うまでもない。いい仕事をするためには、二人で足並みを揃えることが必要不可欠だ。  閉めた扉に背を預け、紳は小さく息をついた。  昔から、他人とともに行動することがどうしても好きになれなかった。どうして人は群れたがり、自分以外の誰かと同じであることに安心を求めるのか。  どうせ人は、人を裏切る。  それが紳の価値観で、誰ともなれ合おうとしない理由だった。  幼い頃、この世は人間の悪意に満ちていて、自分以外は全員敵だと考えるようになってから、友人らしい友人を作らなくなった。いつしか作り方も忘れ、不用意に近づいてくる人間とは自然と距離を取った。そうやって自分を守ってきた。  大人になって、気づけば検察官になっていた。人を徹底的に疑い、そいつの中にひそむ悪をたたく。天職だと思った。こんなにも自分に向いている仕事は他にない。  世界はどこまでも悪だらけだ。僕は誰のことも信じない。絶対に――。  幼少期に植えつけられた信条が揺らいだことは一度もなかった。誰かと仲良くし、なにかを共有することに喜びは覚えない。人はなぜ、人のぬくもりを求めるのだろう。心底理解できなかった。  今の話もそうだ。平久たちの立ち話。  来週異動してくる新しい事務官は、他の誰でもなく、紳と一緒に仕事がしたいと言っているらしい。  なぜ? 検事なんて皆同じで、同じように悪を裁くことを求められるだけなのに、どうして特定の誰かを選ぶ必要があるのか。  傍聴マニアの連中もそうだ。裁判の傍聴を趣味としている彼ら傍聴マニアも、なぜか紳が担当する公判を傍聴したがる。  小耳に挟んだ話では、紳は彼らの間で『イケメン検事』として有名で、女性ファンが日に日に増えているとか、いないとか。  原因はわかっていた。目だ。日本人では希少で、圧倒的に特徴があるこの目。  切れ長な二重(ふたえ)まぶたに、琥珀色(アンバー)と呼ばれる、黄色みを帯びたグレーにも似た色素の薄い茶色の瞳。光に当たるとまるで宝石のようにきらきらと輝き、透明感のある色合いはじっと見つめていると吸い込まれてしまいそうなほど神秘的だ。両親とも純粋な日本人だが、ハーフと間違えられた経験は何度もあった。  しかし、それがなんだというのだ。検事の仕事と瞳の色になんの関係がある?  くだらない。法廷で意見を戦わせる女性弁護士の何人かに言い寄られたこともあったけれど、これまですべて無視してきた。異性との交際に興味はない。 頼むから、放っておいてほしい。それが紳の願いだった。陰口ならいくらでもたたいてくれてかまわないが、すり寄ってくることだけはやめてほしい。仲良くなろうとしないでほしい。  どうせ人は、人を裏切る。いとも簡単に嘘をつく。  僕には疑うことしかできない。あなたのことだって、例外ではないのだから――。  ロビーに重苦しいため息を残し、紳は静かに退庁した。  一週間後、紳のもとへ新たな事務官がやってくる。紳と仕事がしたいと言って。  憂鬱だった。まだ二十歳だというその若い事務官は、いったいなにを期待しているのだろう。  妙な話を耳にしてしまった。嫌われることには慣れているが、誰かに求められることには不慣れだ。  胸の中がモヤモヤして、意味もなく緊張したりもして、それから一週間、紳は(がら)にもなくそわそわしていた。  三月が去り、カレンダーが四月の訪れを告げると同時に、新たにパートナーとなる青年は紳のもとへとやってきた。
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