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「冬野くん」  まだまだ春らしいとはとても言えない、冷え込んだ朝だった。登庁するなり、紳は直属の上司である部長検事、矢間(やま)に呼ばれた。彼は部長室から首だけを出し、ロビーに入ったばかりでまだコートも脱いでいない紳を手招きした。  黒いビジネスバッグを()げたまま、紳は「失礼します」とロビー奥の部長室へ入った。中には矢間の他にもう一人、見慣れない青年が立っていた。  ブルーグレーのスーツに身を包んだその人は、スラリと背が高く、ずんぐりむっくりな矢間と並ぶとスタイルの良さがいっそう際立つ。少し癖のある黒い髪はしかしナチュラルにうねっていて、ヘアカットのモデルみたいに(さま)になっている。 「紹介しますね、冬野くん。今日からきみの担当事務官になる、小松原(こまつばら)(なつ)()くんです。まだ二十歳だそうですよ。何年ぶりでしょうね、Q支部にこのようなフレッシュな子が来るのは」  矢間は右手でその人を示しながら、嬉しそうに紳の新たなパートナーの名を告げた。  紳が部長から彼、小松原夏輝へと視線を移す。まっすぐに目が合うと、なぜか夏輝は、唐突に瞳を潤ませた。 「やば。本当に冬野さんだ」  目尻に浮かんだ涙の粒をそっと拭い、夏輝はもう一言、かみしめるようにつぶやいた。 「よかった……やっと会えた」  喜びの感情を涙という形で素直に表に出した夏輝の姿に、紳はすっかり呆気(あっけ)にとられ、目を(しばたた)かせた。一方で矢間は微笑ましげに夏輝を見ていた。まるで念願叶った息子を見守る父親のようだ。  夏輝は「すいません」と言ってすぐにしゃんと背筋を伸ばし、紳に向かって堂々と名乗った。 「今日からお世話になります、事務官の小松原夏輝です。冬野さんにつかせていただけるなんて光栄です。よろしくお願いします」  元気な挨拶はどこか体育会系的で、しかし、なめらかで冷静な口調からは理知的な雰囲気も感じられた。大学へは進学せず、高校卒業と同時に検察事務官になったと聞いているが、なるほど、難関であっただろう国家公務員試験を突破しただけのことはあるらしい。  腰を深く折ってお辞儀をし、ゆっくりと上げられた夏輝の顔は真剣そのものだった。凜々しく精悍(せいかん)面立(おもだ)ちは男らしいのに、きらきらと輝く漆黒の瞳はまるで子犬が飼い主にしっぽを振っているような愛くるしさを(はら)んでいる。  紳の目つきが、相手を値踏みするようなものに変わる。  面倒なことになりそうだと、直感にささやかれた。人懐っこそうなタイプだ。こういう人は、僕のパーソナルスペースに許可なくずかずかと踏み込んでくる。そして僕を好き勝手に振り回す――。  夏輝の作り出すテンポに流されまいと、紳はいつもどおり、淡々と挨拶を返した。 「冬野です。こちらこそ、よろしくお願いします」  ニコリともしないで軽く頭を下げたが、無愛想な紳の態度などまるで気にする様子もなく、夏輝は嬉しそうに笑った。  意味がわからない。  この人はいったい、僕になにを期待しているんだ。
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