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 Q支部の全職員が揃ったところで、ロビーに集まった面々に対し夏輝が着任の挨拶をした。ハキハキとしゃべる姿はやはり体育会系的で、生来おとなしい紳とは真逆の性格をしているだろうことは嫌でも理解できた。  Q支部所属の検事それぞれに割り当てられた取調室は、検事個人の事務室でもある。扉の脇には『検事 冬野紳』というネームプレートが掲げられており、逮捕された警察署内に勾留されている被疑者は、留置場の職員に連れられ、事件を担当する検事の待つ部屋へと入って取調べを受ける。  起訴か、不起訴か。検事にとっても、被疑者にとっても、取調室とは裁判所同様、被疑者のその後の人生を決定づける、いわば『運命の分かれ道』と呼べる場所だ。個人的な人付き合いは避けがちでも、被疑者とはどこまでも真摯に向き合う紳は、割り当てられたその部屋を誰よりもきれいに使っていた。室内の清掃も自ら率先しておこない、(ほこり)の影は見えない。それが紳なりの、被疑者への礼の尽くし方だった。 「そちらのデスクを使ってください」  紳は淡々とした口調で夏輝に指示した。入り口正面のデスクは検事用、その向かい側、扉を背にした机は被疑者用、検事のデスクを左手に、両者を横から見られる位置に置かれたデスクが事務官用だ。今日から夏輝が使うデスクにはすでに、『事務官 小松原夏輝』と印字されたネームプレートが置かれていた。  自分のデスクへと戻りながら、紳は次々と夏輝に指示を飛ばしていく。 「書棚や資料庫の配置、配列は早急に覚えてください。今日は午前十時から傷害事件の被疑者の取調べがあります。被疑者の証言内容については一言一句(たが)わず記録してください。できますか?」 「もちろんです。やります」  ほう、と紳は心の中でつぶやく。  意識していないと威圧的な口調になってしまうのは紳の悪い癖であり通常運転でもあって、初対面の事務官はたいてい(ひる)んで萎縮してしまう。  だが夏輝は怯むどころか、胸を張り、凜とした表情さえ浮かべて答えた。検事になって八年、自分より若い事務官でこのような反応を見せたのは夏輝がはじめてだった。 「皆さん大事にされてますもんね、供述調書。当たり前ですけど」  夏輝は与えられたデスクに荷物を詰めた段ボールを下ろしながら言った。 「あとになって調書を読み返した時、取調べ中には気づかなかったなにかに気づくことってあるものですよね。正確に記録しておかないと、気づけることにも気づけない」  紳はあやうくうなり声を上げそうになった。  たったこれだけの会話で、彼の仕事に対する熱意と誠実さが(うかが)い知れた。彼が腕のいい事務官であることに疑いの余地はなく、何年ぶりかにいい事務官に巡り会えたかもしれないと、紳はどうしようもなく心が躍るのを感じ、夏輝に期待し始めている自分自身に戸惑った。 「その傷害事件の資料、確認させてもらえますか」  夏輝は段ボール箱の封を開けながら紳に頼んだ。いよいよ業務の話が始まり、室内の空気が引き締まる。 「取調べが始まる前に、事件の概要、知っときたいんで」 「えぇ。今、お渡しします」  いだいた戸惑いを悟られないよう、紳はどうにか平静を装い、デスクの上に整然と積まれたファイルを一つ夏輝に手渡す。「ありがとうございます」と片手だが丁寧に受け取った夏輝は、荷ほどきもそこそこに、立ったままで資料を黙読し始めた。
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