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 一度Q支部に顔を出し、矢間に事故の顛末(てんまつ)を報告した夏輝だったが、安静にするようにという医師の指示によりその日は有給休暇を取って帰宅させられることになった。夏輝が散々ごねたことは言うまでもない。帰り際の落ち込みようは尋常じゃなかった。  今日に限って仕事が立て込み、紳が仕事を終えたのは午後八時近くになってからのことだった。その足で夏輝の借りている公務員宿舎へと急ぐ。  様子を見に行きたいから宿舎の場所と部屋を教えてほしいと矢間に告げたら、矢間はとびきり嬉しそうな顔をして紳の要求にこたえてくれた。 「まったくきみらしくありませんが、いい傾向ですね」  ニヤついた顔で見送られ、くたびれた外装の宿舎の下についてもなお、紳は恥ずかしい気持ちを引きずり続けた。矢間にはいつかなんらかの形で仕返しをしてやらねばなるまい。  もともとは真っ白だったはずの宿舎の外壁はすっかり黒ずみ、老朽化の進行具合はもはや目も当てられないという悲惨な状況だった。そんなことを気に留める余裕などあるはずもなく、紳の心臓はひたすらに早鐘を打ち続けていた。  エレベーターはなく、階段で二階へと上がる。二○六号室の薄緑色の扉の前で立ち止まり、一度深く息を吸い、吐き出してから、カメラ機能のついていない古ぼけたインターホンを押した。応答はすぐにあった。 「はーい」  重そうな鉄の扉が開く。黒いフーディーにグレーのスウェットパンツというラフな格好で顔を覗かせた夏輝が、紳の突然の来訪に目を見開いた。 「冬野さん、なんで」 「お疲れさまです」  紳はぶっきらぼうに返す。気を引き締めていないと、緊張で声が裏返りそうだ。 「いかがですか、体調は」 「はい、もうすっかり。ていうか、どうして……?」 「矢間部長に伺いました。ご自宅はこちらだと」 「いや、そうじゃなくて」  夏輝が扉を大きく開け放つ。心地よい春の夜風が廊下をすぅっと吹き抜けた。 「お見舞い、来てくれたんですね」 「いけませんか」  恥ずかしさにからだが火照るのを感じる。夏輝は穏やかに首を振った。 「いけないわけない。すげー嬉しい」  赤らんだ頬に、夏輝は優しく唇を寄せてくれた。触れた部分にピリリと幼い刺激が走り、全身がかぁっと熱くなる。 「ありがとうございます、心配してくれて」  夏輝の色っぽい声に、耳の奥をくすぐられる。嬉しいのに、恥ずかしさが勝って視線は下がる一方だ。 「きみが元気なら、それでいいです」 「元気ですよ。久しぶりに昼寝したんで、夜寝られないかも」  からからと楽しそうに笑った夏輝は、「そうだ」となにか思いついたように言った。 「せっかく来てもらったんだし、上がっていきませんか」 「え?」 「晩飯まだですよね? おれもまだだから、ピザかなにか取りましょうよ」 「いえ、さすがに今日は」 「ほら、早く」  夏輝の左手が、紳の左手首を掴んだ。 「狭いし散らかってるんで、ついでに掃除してってくださいよ」 「どうして僕が」  図々しいにもほどがある冗談に、夏輝は一人でまた笑った。腕を引かれるまま、気づいたら彼の自宅の敷居を跨ぎ、靴を脱いでいた。  いつもどおり。今夜もまた、夏輝のペースで事が進む。ちょっと強引で、けれど断るには惜しい時間が始まっていく。
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