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自分も取調べの準備を始めようと、紳は椅子の背に手をかけた。
ふと、顔を上げる。視線の先で、夏輝が資料の読み込みに没頭していた。
吸い込まれるように、夏輝の立ち姿を見つめる。いつもなら事務官がどんな仕事をしていようがおかまいなしに自らの仕事に取り組む紳だが、なぜか目を逸らすことができなかった。
――よかった。やっと会えた。
はじめて顔を合わせた部長室で、夏輝はそうつぶやいた。嬉しさを表す響きの中に、どこかホッとしたような、心の霧が晴れていくような、開放的なニュアンスが混じっていたように聞こえた気がして、彼の放った言葉の謎はさらに深まる。
紳と仕事がしたいと願ってQ支部へ異動してきたと聞いたが、彼が本当に熱望していたのは、単純に紳と会うことだったのか。あるいは、彼は紳が検察官だと知った上で検察事務官になった?
だとするなら『やっと会えた』という言葉の意味も理解できるが、紳と再会したいだけならわざわざ事務官になる必要はなかったはずだ。それこそ、紳のファンを公言する傍聴マニアたちのように、裁判所に足繁くかよえばいつかは会える。なのに、なぜ――。
謎は深まるばかりで、あまり考えすぎると仕事に支障が出そうだった。
いい加減席につかないと、と夏輝から視線をはずそうとした時、夏輝が髪をかき上げる仕草をした。
椅子の背に手をかけたまま、紳の動きが止まる。髪に触れた夏輝の右手の甲に、やけどの痕のような、少し大きめの古い傷痕が見えた。
唐突に、既視感に襲われる。
右手の甲の、痣のような丸い傷。確かな記憶ではないが、見覚えがあるような気がした。
いつだったか。どこでのことだったのか。おそらくは今からもう何年も前のできごとで、少し考えただけでは思い出すことができなかった。記憶力には自信があって、脳裏にその傷の記憶が刻まれていることは間違いないはずなのだが。
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