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 夏輝がふっと顔を上げた。 「どうかしました?」 「いえ、たいしたことでは」 「なんですか。言ってくださいよ」  手にしていた資料をデスクに置き、夏輝は話を聞く体勢を整える。無視することは叶いそうになく、紳はしぶしぶ尋ねた。 「僕の勘違いであれば申し訳ないのですが、昔、どこかでお目にかかりましたか?」  十二も歳の離れた彼と出会うことがあるとするなら、検事になってから扱った事件の関係者くらいしか考えられない。しかし、事件関係者についてはほとんどすべて記憶にある。彼のことだけがすっぽりと抜け落ちているというのは少々考えにくいことだった。  問われた夏輝は、なぜか目をぱちくりさせた。驚いているように最初は見えたが、次第にその顔が、いたずらっぽい笑みに満ちていく。 「すげぇな。さすが冬野さんだ」 「え?」 「その質問は想定外でした。あの日のこと、絶対覚えてないだろうなって思ってたから」 「あの日?」  覚えていない。今のところ思い出せそうもないが、記憶の片隅にうっすらとだけ、ぼんやりした影が見えている気がした。 「やはり、どこかで……?」 「どうしてそう思われるんです? おれと昔、会ったことがあるんじゃないかって」  質問に質問で返されたことは遺憾だったが、紳は黙って、夏輝の右手の甲を指さした。 「その傷」 「あぁ、これ」  夏輝はなんでもない風で右手に目を落とすと、デスクを離れ、紳にそっと歩み寄った。 「昔、あなたはおれにこうしてくれたんです」  そう言って、夏輝は左手で紳の右手をすくい上げる。その手を、自らの右手に重ねた。  紳の右手の中に、夏輝の右手がすっぽりと収まる。傷を覆い隠し、優しく包み込むような格好。 「ありがとうございました。あの時、おれを救ってくれて」  心のこもったあたたかい声で、夏輝は言った。 「あの日から、おれの人生は変わった。あなたのおかげです。あなたに出会えたから、がんばれた。あなたがいてくれたから、おれは今、ここにいる」  今度は夏輝が、両手で紳の右手を包んだ。 「寝ても覚めても、冬野さんのことばかり考えてきました。絶対にもう一度お会いして、ちゃんとお礼が言いたい。できれば今度は、おれがあなたの役に立ちたい。おれ、バカだけど、そのために検察事務官になりました。再会できて、あなたの事務官になれて、本当によかった」  幸せをかみしめるような顔で一人勝手に感極まっている夏輝だが、彼の紡いだ言葉の中に、紳の求めていた答えは含まれていなかった。  結局、いつのことだったのだろう。紳が夏輝の傷ついた右手を握ったのは。そもそも本当に、彼の手を握った相手は紳なのか。  思い出せない。すなわち、おそらくは幼かったであろう夏輝との邂逅(かいこう)は、紳にとっては取るに足らない、記憶に留めておく価値のないできことということだ。  片や夏輝にとっては、厳しく難しい司法の世界に足を踏み入れてまで紳との再会を夢見るほどの印象深いエピソードだった。紳との出会いによって、彼の人生は色を変えた。  二人の手が、音もなく離れる。夏輝はふわりと優しく笑って、再び資料の読み込みに没頭し始めた。  ほしかった答えを()き返すタイミングは完全に失われていた。そもそも夏輝は、なぜ自分から話さないのだろう。隠すような、わざとぼかすような言い方をして、僕を試しているつもりか――?  数秒前まで包まれていた右手にほんわかとあたたかい感覚が残っている。  眠った記憶の影は見えない。ただ、じんわりと右手を透過していく彼のくれたぬくもりから、不思議なこそばゆさを感じたことは確かだった。
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