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 検察とは、事件に遭った被害者に優しい一方で、事件を起こした被疑者には鬼のように厳しい組織だ。  被疑者に罪と向き合わせ、己のあやまちを自覚させる。事件の態様によっては同情の余地のある被疑者もいるけれど、そんな場合であっても、検察官が被疑者に甘い顔を見せることはない。 「本当です! 本当に相手のほうから突っかかってきたんです!」  午前十時から予定されていた傷害事件の取調べである。良知(らち)という名の被疑者の男が、紳が読み上げた事件の概要について、必死に異議を唱えていた。 「肩が当たったって言うけど、あっちが一方的にぶつかってきたんだ。狭い歩道でもなかったのに、フラフラと俺のほうに寄ってきて。酔っ払ってたんですよ、あの人。千鳥足っていうか」  今回の事件では、被疑者と被害者の間に面識はない。三日前の午後十時頃、ひとけのない歩道で肩がぶつかったことから口論となり、被疑者が被害者を突き飛ばした結果、被害者が歩道の(えん)(せき)で右(そく)(とう)部と右腕を強打。脳しんとうを起こして意識を失った上、右肘を骨折するという重症を負った。被疑者である良知が被害者を突き飛ばす瞬間を目撃していた者がおり、その目撃者が消防と警察に通報。良知は事件直後に現場を立ち去っていたが、警察の地道な捜査によって、後日、傷害の容疑で逮捕された。 「では、こういうことですか」  紳は(なか)ばうんざりして、事件概要を改めて口にした。 「通りすがりに被害者と肩がぶつかったのは、被害者の側に非があった。あなたは振り返って謝罪をしたが、被害者は頭に血が上っており、あなたより先に手を出してきた?」 「そう、そうです! 俺はちゃんと謝ったのに、相手が『誠意が見えない』って難癖(なんくせ)をつけてきて、胸ぐらを掴まれて。振り払って立ち去ろうとしたら、追いかけられて、肩を掴まれました。鬱陶(うっとう)しかったんで、もう一度振り払おうとしたら、相手が……」 「振り払おうとしたのですか?」  紳が険しい表情で追求する。 「故意に突き飛ばしたのではなく?」 「違います! 俺はただ、相手がしつこかったから、振り切って逃げようと思っただけで」 「逃げ切るためには、相手がこれ以上追いかけてこない、追いかけてこられない状態に(おちい)ってほしいと願ったはずですね? そのためには、相手に怪我を負ってもらうことが好都合だ。そう考えて、わざと縁石にぶつかるように突き飛ばし、被害者を昏倒(こんとう)させたのではありませんか?」 「だから違うっつってんだろ!」  良知が怒りに顔を真っ赤にして立ち上がった。紺色の制服を着た留置場の職員と同時に、取調べに立ち会っていた事務官の夏輝も席を離れ、「落ちついてください」と良知に声をかけた。  二人が良知をなだめている間、紳はデスクに頬杖をつき、興奮する良知の様子を黙って観察した。  紳が探っているのは『故意』だ。事件当時の良知に、被害者を傷つける意思があったかどうか。  相手を傷つける、あるいは傷ついてもいいという意思を持っておこなった行為と、偶発的に起きてしまった行為とでは、裁判所に申し立てる量刑の重さを変える必要がある。前者は重く、後者なら少し軽めの罪。不必要に重い量刑を科すことは、更生の観点から考えても適当とは言えない。  夏輝と留置場の職員の二人がかりで再び椅子に座らされている今回の事件の被疑者、良知の場合はどちらだろう。彼の主張を信じるなら、傷害の故意は否定され、過失致傷――うっかり相手に怪我をさせてしまった事故だったということになる。過失致傷罪の場合は親告罪のため、相手方の告訴がなければ訴訟に発展しないのだが、果たして。 「冬野さん、一度休憩を挟みませんか」  夏輝がようやく席についた良知の肩に手を乗せたまま提案した。 「五分間でどうでしょう。少し頭を冷やしてから、聴取を再開するってことで」  紳は睨むように夏輝を見た。聴取を始めてからまだ三十分も経っていない。被疑者に甘すぎやしないだろうか。  紳が返事をせずにいると、夏輝は「お水、飲みます?」と良知に声をかけ、そのまま部屋を出て行ってしまった。紳は(はじ)かれたように立ち上がる。 「勝手なことを……!」  我知らずそうつぶやいてから、紳は「では、五分間休憩を取ります」と夏輝に言わされる形で良知に告げ、急いで取調室を出た。
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