青い海の美女

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   眼前に、惑星の壮大な曲面が広がっている。今日から私は、小型宇宙ステーションの乗組員として働くことになった。任務は日々の地球観測。子供の頃からずっと憧れていた宇宙空間での仕事に、私は期待感と使命感で胸が一杯だった。  任務についてから一週間、私は毎日のように、ステーションから見える青色の美しい惑星に魅了されていた。  人工衛星の画像データの解析が一段落し、私は午後の休憩をとった。パックに入ったコーヒーをストローで飲みながら窓外に広がる地球の海をうっとりと眺めた。  すると海面に何か絵のようなものが、ふっと浮かび上がった。気のせいかと思い、目をこすってもう一度見てみると、確かに絵が現れていた。  ナスカの地上絵のような、言わば巨大な「海上絵」だ。  描かれていたのは、美しい女性の顔だった。シンプルな線画だが、長い髪のウェーブや、どこか憂いを帯びた表情がしっかりと見てとれた。そして彼女の瞳からは一粒の涙がこぼれていた。  私は慌てて同僚に声をかけ、ステーションの窓ガラスの向こうを指差した。 「見えるだろう?あれ!女の人の顔!」  同僚はその方向を眺めて、首をかしげた。 「いつもの海にしか見えないけど……」  他の同僚に見せても、反応は同じだった。  動揺した私は、リアルタイムの衛星画像の方を確認してみた。画像を隈なく調べたが、どこにも女性の顔はなかった。  私はもう一度、肉眼で地球の海を見た。巨大な女性の顔の海上絵が確かに見える。だが、どうやら自分以外の人間には見えないらしい。  これ以上騒ぎ立てると幻覚症患者のレッテルを貼られ、下手をしたらせっかくの宇宙観測官の職を解雇されかねない。  私はとりあえず女性の顔をできるだけ正確に紙に描き写し、仕事に戻った。  その夜、就寝スペースで紙に描いた女性の顔をこっそり眺めながら、私は考えた。  悲しげに涙を流す、海上絵の女性……  私はふと、これは海からの叫びだと思った。美しい地球の海は、今や人々の無自覚で身勝手な不法投棄や経済優先の開発行為によって汚され続けている。結果、生態系は破壊されつつあり、そのつけは必ずや我々人類に返ってくるはずだ。  海は私という人間を信じ、私にだけ訴えかけてきたのだ。ならば私自身が行動を起こし、今すぐにでも、人々の意識を変えさせなければいけない。  私は海上絵の女性の顔をアイコンにして、SNS上にメッセージを発信した。 「かけがえのない私たちの海を守るために、今日から意識と行動を変えよう!」  涙する女性の海上絵が宇宙ステーションから見えた、という観測担当官のエピソードは、瞬く間に世界中で話題になった。そのおかげで各地で海を保護するための施策が急ピッチで進められた。そして数ヶ月後には、各々の施策に顕著な成果が表れ始めた。  その間も海上絵は、相変わらず私だけにしか見えなかった。だが、悲しげだった女性の顔は、徐々に変わってゆき、今や満面の笑みを湛えていた。青い海に浮かぶ表情にも拘わらず、不思議と頬の辺りがほのかに紅潮して見えることもあった。    数週間後のある日、私はいつものように休憩中に、コーヒーパックを片手に海上絵の女性の微笑みに見とれていた。  すると突然、凄まじい衝撃音とともにステーション全体が激しく揺れた。私は窓ガラスに強く体を打ちつけられた。すぐにあちこちで警報音が鳴り響いた。  私は額から血を流し、意識を朦朧とさせながら目を開いた。機体か急激に落下し海へ近づいていくのがわかった。  隕石の欠片か何かが衝突したのだろうか。  だが、その類いのものが迫り来る予兆など、全く観測されていなかったはずだ。   誰一人、何も原因がわからぬまま、ステーションは燃え尽きながら、広大な海原に飲み込まれていった。 ***    私が再び目を開いたのは、水の中だった。海面からの光は届かず、かなりの深さにいるように思われた。たが、不思議と息苦しさは感じなかった。  体を動かしてみると、水の抵抗もない。何だか今までの肉体という着ぐるみを脱がされ、姿形は自分だが、素材の全く違う別の着ぐるみに着替えさせられた感じがした。    やがて前方に、人影が揺らめいているのが見えた。その姿は徐々に明確になり、見覚えのある顔をのぞかせた。   「き、君は……」  あの海上絵に瓜二つの顔の、美しい女性が佇んでいた。  やがて、彼女はこちらに向かってゆっくりと手招きをした。  この世の物とは思えぬほどの、ぞっとするような妖艶な眼差しで微笑みながら──  私はその時、ようやく悟ったのだ。  ステーションの墜落が事故などではなく、‘’海なる彼女‘’が巻き起こした、‘’自然‘’の成り行きであったことを。 〈了〉
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