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はじめての撮影現場
息をするのを忘れてしまったかのように、鶴来和豊は目の前で繰り広げられるシーンを見つめていた。
おどろおどろしい、その言葉がぴたりと当てはまる。人が発する狂気はこの世に存在しないものよりも恐ろしいさがあった。
自分が書いた小説に登場する殺人鬼の八尋たつむが目の前にいる。
狂ったように笑いナイフを突き刺し、それが快感で達してしまう。地に濡れたナイフを眺めて恍惚な表情を浮かべた。
「はい、カット」
監督の声に、重たい空気はすっと消え失せて、狂ったように笑っていた若者はふんわりと柔らかな笑みを浮かべてカメラの元へと向かった。
作品が映像化されるのは初めてで、デビュー当時からお世話になっている雑誌の担当編集者である芦屋から撮影現場の見学に誘われたのは一カ月前のことだ。
出演する役者の演技は見ておきたかったので誘いを受けることにした。
芸能に詳しいわけではないが、主役である間宮を演じるのは神嶋成実は知っている。彼の主演ドラマはどれも高視聴率を叩きだしている。
だが八尋役の彼は知らない。芦屋がいうには舞台中心で活躍をしている俳優だそうだ。
「加地宏です。宜しくお願いします」
爽やかな青年だ。身長は同じくらい、もしくは少し高いくらいか。だとすると一七〇センチメートルはあるだろう。体重は自分よりもありそうだ。歳は二十三。十歳年下だ。
「はじめまして。鶴来です」
手を差し出すと、両手で握りしめて返す。
目の前にいる彼が先ほどまで八尋を演じていたとは思えない。
「あの?」
まじまじと加地を見つめていた。それに気が付き、失礼したと頭を下げる。
「先ほどの演技がすごくて」
「本当に八尋がいると思いましたよね、先生!」
と芦屋が続く。
「そう言っていただけて嬉しいです」
照れながらそう口にする加地は、やはり八尋とは遠い存在に見えた。だからギャップに驚くのだろう。
「加地君、そろそろ始めるよ」
「はい。それでは失礼します」
頭を下げセットへと向かう。そして再び目の前に八尋が現れた。
「すごいですねぇ加地君。カメレオン俳優なんですね。柔らかい感じの子だと思っていましたが別人のようです」
カメレオン俳優とは役に入り込む俳優のことだと芦屋が後からそう付け加える。
「そのようですね」
カチコンが鳴ると現実に戻れる人もいれば、抜け切れない人もいる。見た限りでは加地は前者だろう。
「実写で本の中のような八尋を見られるとは思いませんでした」
自分は演技に関しては素人だが、口にしてしまうほど加地の演技に引き込まれた。
「はい。僕もそう思います。八尋は間宮と同じく中心となる人物ですからね」
演技ができる俳優でなければこの作品は上手くいかない。それをよくわかっていてキャスティングされている。
名前は何とか知っているくらいだが、自分は失礼なことをしてしまった。今までの出演ドラマや映画を見るべきだった。
「はぁ、自分が情けないです。今日、ここで演技をしてくださっている方たちを知らなさすぎる」
「先生、テレビをあまり拝見されないと言っていましたものね。主役の神嶋くんは知っていたんですよね」
「あぁ。ドラマを何本か見た。後、小比木さんは知っている。癖のある役を演じているよな」
「はい。小比木さんが出るドラマはドキドキしますよ。どんな役をやられるのかって」
脇役もいい役者ばかりだと芦屋が興奮気味に話す。鶴来はそこまで詳しくないのでどんなドラマに出ていたとか教えてもらえて助かる。
「よく知っているな」
「好きな作品がドラマ化されると嬉しくて」
昔から本が好きでこの仕事は天職だと話していたことを思い出す。
自分は大学の時に友達に頼まれて台本を書くのが楽しくて好きになった。
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