1 透明人間

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1 透明人間

 いつものように深夜に帰宅すると、夕食が用意されていなかった。  仕事人間に対する当てつけだとしても、同棲している香苗のやりかたは婉曲的で、実に陰湿である。こっちだって好きで仕事まみれになっているわけではない。会社のため、恋人のためにそうしているのだ。  憤慨しながら冷蔵庫を漁り、分厚くて不健康そうな色のサラミハムと干からびた人参を見つけ出し、油で炒めた。時刻は23:30をすぎていて、腹の虫は不平を垂れるのを諦め、すっかり沈黙している。空腹なのかそうでないのかが自分でもわからない。  即席の野菜炒めを取り皿へあけようとしたところで、ようやく気づいた。  わたしの皿がない。皿だけではない。マグカップも茶碗も、箸すら消え失せていた。いくらなんでもやりかたが汚すぎる。どうにか怒りを抑えながら適当な大皿へ野菜炒めを移し、割り箸でもぐもぐやり始める。ふんだんに胡椒をふったにもかかわらず、砂を噛んでいるような気分だった。  歯磨きだけして寝ようと思い、洗面所の棚から自分専用の青色のブラシを取り出そうとしたが、見つからない。さすがにこれは香苗の嫌がらせではないかもしれないという疑念を遅まきながら、抱いた。  おそるおそる自分の手を注意深く眺めてみる――明らかに透けかたが顕著になっている気がする。もともと存在感が皆無のわたしなので、確信は持てなかった。パニックに陥っているだけかもしれない。確かめなければ。  寝室へ忍び込み、かすかに寝息を立てている香苗をそっと揺り起こした。起きなかった。今度は乱暴に揺すってみた。まるで睡眠を妨害されていないかのようにまったく反応がない。  翌日を待つまでもなかった。
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