付、張臶・胡昭伝

7/8
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/145ページ
扈累と寒貧。 かたつむりの家。 註18. 魏略又載扈累及寒貧者。累字伯重,京兆人也。初平中,山東人有青牛先生者,字正方,客三輔。曉知星曆、風角、鳥情。常食青葙芫華。年似如五六十者,人或親識之,謂其已百餘歲矣。初,累年四十餘,隨正方游學,人謂之得其術。有婦,無子。建安十六年,三輔亂,又隨正方南入漢中。漢中壞,正方入蜀,累與相失,隨徙民詣鄴,遭疾疫喪其婦。至黃初元年,又徙詣洛陽,遂不復娶婦。獨居道側,以㼾甎為障,施一廚牀,食宿其中。晝日潛思,夜則仰視星宿,吟詠內書。人或問之,閉口不肯言。至嘉平中,年八九十,裁若四五十者。縣官以其孤老,給廩日五升。五升不足食,頗行傭作以裨糧,糧盡復出,人與不取。食不求美,衣弊縕故,後一二年病亡。寒貧者,本姓石,字德林,安定人也。建安初,客三輔。是時長安有宿儒欒文博者,門徒數千,德林亦就學,始精詩、書。後好內事,於衆輩中最玄默。至十六年,關中亂,南入漢中。初不治產業,不畜妻孥,常讀老子五千文及諸內書,晝夜吟詠。到二十五年,漢中破,隨衆還長安,遂癡愚不復識人。食不求味,冬夏常衣弊布連結衣。體如無所勝,目如無所見。獨居窮巷小屋,無親里。人與之衣食,不肯取。郡縣以其鰥窮,給廩日五升,食不足,頗行乞,乞不取多。人問其姓字,口不肯言,故因號之曰「寒貧」也。或素有與相知者,往存恤之,輙拜跪,由是人謂其不癡。車騎將軍郭淮以意氣呼之,問其所欲,亦不肯言。淮因與脯糒及衣,不取其衣,取其脯一朐、糒一升而止。臣松之案魏略云:焦先及楊沛,並作瓜牛廬,止其中。以為瓜當作蝸;蝸牛,螺蟲之有角者也,俗或呼為黃犢。先等作圜舍,形如蝸牛蔽,故謂之蝸牛廬。《莊子》曰:「有國於蝸之左角者曰觸氏,有國於右角者曰蠻氏,時相與爭地而戰,伏尸數萬,逐北旬有五日而後反。」謂此物也。 (訳) 魏略はまた、扈累(こるい)及び 寒貧(かんひん)という者を掲載している。 扈累は字を伯重、京兆(けいちょう)の人である。 初平年間、山東(さんとう)の人で 青牛(せいぎゅう)先生という者がおり、 字は正方。三輔に客寓していた。 天体、(こよみ)、風角(風による占い)、 鳥情について熟知しており、 常に青葙(せいしょう)(ウマクサ)、 芫華(げんか)を食べていた。 年は五、六十歳のようであったが 彼とは親しく、面識があって 「彼は已に百歳余りだよ」と謂っている人もいた。 当初、扈累は四十歳余りで 正方に隨って遊学しており、 人は、その術を体得したと謂っていた。 妻はいたが、子はなかった。 建安十六年(211)、 (馬超の影響で)三輔が乱れると また正方に従って南方の漢中へ入った。 漢中が壊乱すると 正方は蜀へ入ったが 扈累とはお互いを見失ってしまい (扈累は)移民に従って(ぎょう)へ詣った。 疫病に遭遇し、妻を喪ってしまった。 黄初元年(曹丕が即位した年)に至り 再度転移して洛陽へ詣ったが 結局もう妻を娶る事はなかった。 独り道の側に居して 㼾甎(かわら)によって障壁をつくり、 (くりや)(ベッド)を一つ施設し その中で食事をとり、宿泊した。 昼間は沈思しており、 夜には星宿を仰視して、 内書(方術書?)を吟詠していた。 問いかけてくる人がいても 閉口して話す事を肯じなかった。 嘉平年間(249〜)に至ると 年齢は八、九十歳であったが (見た目は)四、五十歳のようだった。 県の官吏は、 彼が孤老(身寄りのない老人)である事から (倉廩から)日に五升の米を支給した。 五升では食事に足りず、 頗る傭作(雇われて物を作る)を行う事で 食糧を(おぎな)っていた。 食糧が尽きれば再度(仕事に)出ていき 人が与えても受け取らなかった。 食べても美味しさを求めず (やぶ)れた縕故(うんこ)(縕袍?)を 身につけており、 一、二年後に亡くなった。 寒貧は、本来の姓は石、字を徳林(とくりん)、 安定の人である。 建安年間の初め(196〜)、三輔に客寓した。 この時、長安(ちょうあん)に 宿儒(年功ある儒者)の欒文博(らんぶんはく) という者がおり、門弟は数千であった。 石徳林もまた就学(欒文博に学ぶ)し、 はじめは詩経、尚書を精読していた。 後に内事(方術)を好み、 衆輩(一般人)の中で最も 静謐で寡黙であった。 十六年(211)に至って関中が乱れると、 南方の漢中へ入った。 初めは生業をおさめず 妻子をやしなう事もせずに 常に老子の五千文及び 諸々の内書を読んで 昼夜吟詠していた。 二十五年(220)に到って漢中が破られ、 衆人に隨って長安へ帰還した。 遂には痴愚として、もう 人と面識をもたなかった。 食べる際は美味を求めず 冬も夏も(やぶ)れた布を 連結させた衣を身につけていた。 体は勝つ所などないかの如くで (ガリガリだった?) 目は見る所などないかの如くだった。 窮巷(貧民街)の小屋に独居していて 親類もなかった。 人が彼に衣食を与えても 受け取る事を肯じなかった。 郡県は、彼が(やもめ)で困窮している事から 日に五升の米を支給した。 食糧が不足すると 頗る乞食をして歩いたが 乞うても多くは受け取らなかった。 人がその姓字を問うても 口で話す事を肯じなかったため よって彼を「寒貧(かんひん)」と 号するようになったのである。 もとから彼とは知り合いだった者がいて、 往きて彼を存恤(慰問して恵む)していたが その都度跪拝していたので、 この事に由り人々は、 「彼は痴者ではない」と謂った。 車騎将軍の郭淮(かくわい)は 意気によって彼を呼び出し その欲する所を問うたが、 やはり話す事を肯じなかった。 郭淮はそこで脯糒(干し肉と乾飯(ほしいい)) 及び衣を与えた。 そのうち衣は受け取らず、 干し肉一朐、乾飯一升を受け取るにとどめた。 わたくし松之が勘案するに、「魏略」は 「焦先及び楊沛(ようはい)は、いずれも 瓜牛(かぎゅう)廬を作り、その中にとどまっていた」 と云っている。 「瓜」は「蝸」と作るべきだと考える。 蝸牛(かぎゅう)は、螺蟲のうちで 角を有するもののことであり、 俗称として「黄犢(こうとく)」と呼ぶ事もある。 焦先らは円環型の屋舎を作り、 形状が蝸牛のカラの如くであったために これを「蝸牛廬」と謂っていた。 荘子のいう、 「蝸の左角に国を有する者を觸氏といい 右角に国を有する者を蛮氏という。 時に、互いに領地を争って戦い、 伏した(しかばね)は数万、 逃げるものを逐い、 十五日後に反転した」 とは、この動物のことを謂っているのだ。 (註釈) やぶれた縕故(ウンコ)を着ていたのか…。 縕故(ウンコ)…… くだらない話はさておき、 「衣弊縕故」は、孔子の子路(しろ)評、 「衣敝縕袍,與衣狐貉者立,而不恥者,其由也與」 が元だと思われ。 楊沛(ようはい)賈逵(かき)伝の後ろの方に登場済み。 寒貧は蒼天航路にも出てきます。 もしかして「素寒貧(すかんぴん)」の語源かしら? 管寧伝の後半に出てきた人のまとめ ・張臶 戦闘 ★★★★ 4 戦略 ★★★★★ 5 内政 ★★★ 3 人格 ★★★★★★★ 7 ・胡昭 戦闘 ★★★★ 4 戦略 ★★★★★ 5 内政 ★★★ 3 人格 ★★★★★★★ 7 ・焦先 戦闘 ★★★ 3 戦略 ★★★★★★ 6 内政 ★ 1 人格 ★★★★★★ 6 ・扈累 戦闘 ★★★ 3 戦略 ★★★★★ 5 内政 ★★ 2 人格 ★★★★★★ 6 ・寒貧 戦闘 ★★★ 3 戦略 ★★★★★★ 6 内政 ★★ 2 人格 ★★★★★ 5 2023.2.3
/145ページ

最初のコメントを投稿しよう!