野菜と煙草と元カノと

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 ■  余命宣告を受け診察室を出てからずっと、僕の足は地に付かずに宙にふわふわ浮いている。夢の中にいる感覚とでもいうか。僕は右足左足と意識して交互に足を動かし「前に進め」と脳に指示を出しながらどうにか病院から一番近い地下鉄の駅に辿り着き、ホームに立った。ホームの時計を見る。まだ余命宣告を受けてから一時間も経っていない。自分では一年くらい経ったような感覚だ。あ……一年経ったとしたなら僕はとうに死んでいるのか。  電車が来た。いつもより警笛が大きく鳴った気がする。もしかしたら運転手に僕が自殺でも図るように見えたのかもしれない。電車は無事に誰も轢くことなくドアを開けた。朝の通勤ラッシュの時間はとっくに過ぎて、乗り込んだ電車の中は早朝と同じ世界軸の電車とは思えないくらいに長閑(のどか)だ。  僕が腰を下ろしたシートの目の前には、ちっちゃな運動靴の足をぷらぷらさせたニ、三歳くらいの男の子と若い母親が座っていた。母親は優香と同じくらいの歳だろうか。とても幸せそうに見える。  きっと彼女の夫は毎日野菜をモリモリ食って、煙草なんか吸わない立派な男なのだろう。けして半年後に死んだりしない。世の中にはそんな立派な男が溢れているのにこの僕は何だ。野菜サラダを次から次にフォークで口へ運ぶ恋人の目から大粒の涙をポロポロこぼさせて、三十三歳で余命宣告を受けた僕という男は一体……。
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