野菜と煙草と元カノと

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 電車は降車駅に滑り込んだ。エスカレーターに乗り地下一階に上がって自動改札機を通る。それからまた階段を上れば住み慣れた町へ出る。 宙に浮いていた足はやや地に付いたもののここの階段は長い。改札を抜けた僕は地上までの長い階段を上り切る自信を失っていた。早くも病が表に顔を出し始めたのだろうか。胸の奥が少し疼く気がする。僕は階段を断念して地上行きエレベーターへと向かった。  エレベーターのドアの前には先客がいた。さっき僕と同じ車両にいたあの親子だ。 母親は自分の腰骨に座らせるようにして息子を片手で抱え、黒色のショルダーバッグをタスキに掛け、もう片方の手には大きなキャンバス地のバッグを下げていた。僕は一体どうしたのか、余命宣告を受けて急に極度の人見知りを克服して善人にでもなったというのか、自分でも思いもよらぬ言葉が口を突いて出た。 「あのう良かったらバッグ、上までお持ちしましょうか」  自分でも驚くような言葉に相手はもっと驚いたに違いなく、怪訝な表情で上半身だけで振り返り僕をジっと見て「結構です」と一言言うと、またエレベーターのドアに体を戻した。息子を抱く彼女の腕に力が入ったのが分かった。彼女の緊張が後ろに立っている僕にも伝わる。目の前の若い母親に僕は変質者か何かと勘違いされたのかもしれない。僕は恥ずかしくて下を向き軽く唇を噛んだ。エレベーターはなかなか来ない。僕は泣きそうになって気まずさもあり、いたたまれずやっぱり階段で地上に上がることにした。  不安はあったが早々簡単に死にはすまい。  気を取り直そう。  僕にはグズグズ泣いたり、恥ずかしさに落ち込んだりしているヒマなんてないんだ。
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