第2章

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「なんなら今日、俺が夕飯作るけど」 「けっこう。少しぐらい料理出来るし、明日には夏也が帰ってくるから別にいらない」  あっさり返されてしまい、また沈黙が横たわる。尻尾を振ったかと思えばすぐに逃げてしまう。彼の意識をこちらに向け続けるのは無理があった。 「…今日はゲームしないのか?俺で良ければ相手になるけど」 ゲームでもすれば少しは会話が増えるだろう。俺自身も何故こんなにも必死なのか分からないが、何か喋っていないと落ち着かなかった。 「何なのあんた、さっきから…。用が無いなら帰れば良いだろ」 すると、突然彼の言葉に棘が出る。不満と苛立ちが募った結果、我慢の頂点に達したのだろうか。俺は宥めようと平静を取り繕うが、彼の矛先は想像以上に鋭い物だった。 「そんなに俺の目が珍しいわけ?もう一度見たら満足?俺は人形じゃない。観賞用の玩具か何かと勘違いしてんじゃねぇよ」 まるで本当に心臓を射抜かれたような感覚だった。あまりの衝撃に息をするのも忘れて、じっと俺は彼の目を見る。作り物のその瞳にも、彼の燃えるような怒りは映し出されていた。 「俺、あんたと会ってまだ少ししか経ってねーけど、大体考えている事は分かるよ。完璧な人間でもない癖に全部分かったように、澄まして俺達の事見ているんだろ?ゲームばっかりしている俺や、ゲイの夏也を見て勝手にあんたの中で線引きしているんだ。上から目線で人を定める暇があったら、少しは自分の空っぽの中身でも見てろよ」  まるで素手で殴り倒されたような気分だった。激しい頭痛が俺を襲う。  前と同じように聞き流さずに反抗すべきだったのかもしれないが、今の俺には無理だった。だって、彼の言っている事は正しいのだから。 俺は完璧を求めながらも、どこかで人を蔑んでいる部分があった。自分は何も持っていないのに、他人を見る目だけは厳しい。何よりそれに気づいたのが、まさか当麻だとは夢にも思わなかっただろう。 「……。あんたとか呼ぶなって、言っただろ?」 「なんだよ。あんただって、俺の事名前で呼ばねーじゃん」 俺は思わず顔を上げた。彼が様子を窺うように、上目でこちらを見ている。涼しい瞳の中に拗ねたような静かな炎が見えた。その瞬間全身から汗が噴き出して、急に呂律が回らなくなった。 「そっ……それは…」  こいつ、そんな事気にしていたのか。   ずっと他人に無関心な奴だとは思っていたが、人の一挙一動を胸には留めているらしい。彼の不満げな表情と曲がった口元を見ると、今にも笑いが込み上げてきそうだった。ほんの些細な事の筈なのに、何故か叫びたいぐらいに嬉しい。  さっきまで青筋立てていたにも関わらず、一気に萎んでどうでも良くなってしまった。  何よりも今は彼の誤解を解きたい。   興味本位で近づき、その瞳に引き寄せられた事は事実だが、何もそれだけが彼を形作っている訳ではない。疑いから人の心に入り込むのは、当麻の癖なのだろう。その過ちを直したいのは山々だが、今の俺が綺麗ごとを並べても説得力など持つ筈が無かった。 相手を大切に思うと、言葉は空回りする。と、誰かが言っていた。小さな事でもすくい上げる事ができれば、それは本人を知る手掛かりとなるのである。だがその小さな事で相手を不快にさせれば、本音というのは届かないものなのだ。俺は言葉を選んでいるうちに、無言のまま黙り込んでしまった。当麻の表情が一段と暗くなって、もう諦めの色が見えていた。 「おーい、当麻!」  夏也の声だ。  一瞬幻聴かと疑ったが、玄関から姿を現したのは紛れもない本人だった。驚きの色を隠せないのは当麻の方で、夏也の顔を見た途端まるで亡霊でも見たような抜けた声を出した。 「…なんで、帰ってきたんだよ…。明日だっただろ?」 「あぁ、実家での用も済んだし、家は少し空気が悪かったから逃げてきた。ご飯ちゃんと食べていたか?」 夏也に頭を撫でられ、当麻は少し恥ずかしそうに頷く。夏也のほうが背は低いのに、彼には頭が上がらないようだった。低いと言っても俺達三人共ほぼ目線は同じだが、当麻は夏也の前だと幼く見える。今も彼が帰ってきた途端に、表情が素に戻っていた。 「光も来ていたのか」 「あ、あぁ。レジュメを預かってきて」 「おぉ、わざわざありがとな。助かるよ」  いつもの夏也だ。自然過ぎて逆に妙な勘が働いてしまうが、別に取り繕っている訳でもなさそうだった。屈託のない笑顔をふりまき、空気を一気に軽くする。これは彼の特技と言っても良いだろう。俺自身も彼のお陰で助かった。 「土産を買ってきたんだけど、…どうやら光と被っちまったみてーだな」 そう言って、手にあるケーキの袋を見せてから、机の上に並べられた二人分の皿を横目で見やった。さすがにケーキを続けて食べるのは胃が重いので、夏也のケーキは冷蔵庫にしまっておく事にした。 「ケーキ、当麻が好物なんだよ。お前知っていたのか?光」 「まさか…たまたまだよ」 当麻は夏也に茶を出した後、気を利かせて皿を洗ってから夕飯を作り始めていた。 有言実行。本気で今日は自炊するつもりらしい。俺は夏也が着替え終わるまで、彼の部屋で待つ事にした。 「当麻がお前を家に入れたのか?」  Tシャツ一枚と半パンに着替え、夏也はベッドの上に寝転がる。両手を頭の下に置き、ぼんやりと天井を眺めていた。疲れているのか声に張りが無い。俺は軽く返事をした。 「あぁ、そうだけど。俺が前に忘れ物したから、その成り行きで」 すると夏也は、ふーん、と気のない返事をしたかと思うと、急に喉の奥で笑いだした。肩を小刻みに震わせて笑うので、なんだか気味が悪い。理由もなく笑われると不気味なので、俺は強引に肩を掴んだ。 「何笑ってんだよ」 「初めてだからだよ…ははっ…。当麻の方から誰かに心を開くのはさ」 正直、夏也の言っている意味が分からなかった。  俺は一度も心を開かれた覚えはないのだが。しかし笑いがおさまる様子も無く、夏也は腹を抱えて声を漏らし始める。やはり俺には不快な笑いだった。 「だって俺、絶対あいつに嫌われてるし」 「嫌いなら家に上げる前に追い出すさ。二人でケーキ食べたんだろ?俺以外の誰かと食事をしたのはいつぶりだろう。はあ、今日は赤飯炊かないとな」  冗談なのか本気なのか分からない。  だが今日の夏也は、どこかすっきりとしていて晴れ晴れとした表情をしている。実家で何か良い事でもあったのだろうか。笑い上戸なところはあるが、これ程沸点が低いのも珍しい事だった。 「本当にお前は、…とっ…当麻の母親みたいだな」 すると寝返りをうった勢いで、夏也は俺の服の裾を掴んだ。そのまま強引に引っ張った為に、胡坐を掻いていた足が崩れ、前のめりになってベッドに顔を埋める。じゃれて上から頭を叩いたり、小馬鹿にした笑い声は聞こえてくるが、彼の冗談もそこまでだった。 「お前は、俺とは違うよな」  不意打ちのように耳元で囁かれ、喉の奥で変な音が鳴った。肩が硬直してそのまま動きを停止させる。聞き慣れている筈の夏也の声から、まるで別人のように甘く溶けるような色っぽさを感じた。 「…は?」 「お前は、俺と違ってゲイじゃないよなって言っているんだ」  急に声に深みが出て神経質な雰囲気になったので、俺は軽い気持ちのまま適当には答えられなかった。彼はきっと、俺が自分から顔を近づけた時の事を言っているのだろう。  あの時の事を怒っているのか。  しかし彼の様子から察するに、別に俺の事を叱責するのが目的ではないらしい。今こうして小声で尋ねるのも、俺への配慮のように感じられた。 だが一つ解せない事がある。夏也の言い方だと、まるでゲイであってはならないという警告のように聞こえるのだ。己と同じでは駄目だという彼の真意が、俺には全く理解出来なかった。  笑顔の裏に隠された本性に、疑問がどんどん膨らんでいく。 「…あぁ。俺はゲイじゃねぇよ」 そう言うと心底安堵したように顔を綻ばせ、夏也は俺の耳元から離れた。別にゲイである事を深く掘り下げるつもりは無いが、それでもずっと気がかりな事がある。  彼が顔を赤らめた理由が知りたいのだ。そこに深い情があったのだとすれば、俺は何を返せばいい?  今こそはっきりさせるべきなのかもしれない。当麻と夏也の関係を。  俺は恐る恐る、様子を窺いながら唇を開いた。 「夏也、お前と当麻って…」 すると俺の声と被って、ギギィと何かがきしむ音がした。 それが戸の開く音であると気づくのに数秒かかり、俺は反応に遅れてしまった。戸の隙間から顔を覗かせていたのは、もちろん当麻であった。 「…まえ…」 上手く聞こえない。思わず乱暴に聞き返そうとしたが、大声を出せば逃げてしまいそうで、ぐっと喉の奥で詰まる。 躊躇いがちに言葉を紡ごうとしている事は伝わってくるのだが、それ以上が彼には難しいらしい。俺の手にも自然と力が入る。 当麻は毒しか吐かないと勝手に思い込んでいたが、今はその口から甘い蜜が出る予感がしているのだ。 声一つ絞りだすのに、これ程緊張するものだろうか。 当麻は普段の癖で先に夏也の顔を見るが、彼の方から助け船を出す様子は無い。俺も敢えて当麻自身の言葉を待つ事にした。沈黙のあとに俺が合図でも出すように、首を片側に傾げてみせると、思い直したように当麻は深呼吸し、どもりながらも声を張り上げた。 「ひっ…光も、夕飯食べていけよ…」  不本意ながらも、名前を呼んだ当麻の事を俺は何故か直視出来なかった。同時にぐっと胸の奥が詰まって息苦しい。心臓の音が耳まで響いて血管が破裂しそうだ。  どうして俺は、こんなにも気詰まって胸が張り詰めているのだろう。 まるで毒リンゴでも食べたように、胃が変だ。 でもその痛みも苦しみも不思議と嫌ではなかった。 「お…おう。ありがとな」 ぎこちない受け答えを見て、隣で笑う夏也。猛烈に恥ずかしくて、穴があれば入りたいぐらいだ。  こんなにも自分をコントロール出来ないのは初めてだ。緩む口元を抑えきれずに、今も腑抜けて間抜けな顔をしているだろうが、そんな事はどうでも良い。ただ今は確実に距離が縮まっている事実を噛みしめていたかった。僅かな時間の、ほんの些細な変化かもしれないが、当麻の中の俺への認識は、明らかに変わり始めていると、実感出来ただけで今は十分だった。  俺が礼を言った途端に、当麻は勢いよく戸を閉めて台所へと戻って行った。慌ただしい彼の行動を微笑ましく見守っていた夏也だが、その横顔にはやはり違和感があった。 「夏也ってさ」 「何?」
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