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「長居し過ぎたか」
地平線の向こう、入道雲まで一直線に伸びる畔道。道脇に寄せて並べ置いた自転車が熱くなっているのを確認して、彼は眉をしかめた。
自分も招く手にならってサドルへ触れると、あまりの熱さにため息を漏らして肯首する。
「コンビニのクーラー快適過ぎるんだよ。ほら、さっき買ったアイスがもう溶けてる」
「……急ぐか」
水滴の滲むパッケージを二つ、ぶらっと垂れ下げて苦笑しながら振って見せると、好物が水分に化すなんて耐えられないんだろう。赤いスイカの断面がこれでもかと強調されたイラストを見て、焦ったようにポッケから鍵を取りだすと、彼は自転車に飛び乗った。
「うわ、ずっる」
「お前も早く乗れば良いだろう。そもそも家主が着かないことには家にも入れん。愛しのスイカバーが溶けたら俺は根に持つぞ」
とんだ八つ当たりだ。僕の家に向かって漕ぐ間にも、どれだけそのアイスが素晴らしいかを語る彼に、ほとほと呆れを覚える。
内容のほとんどを右から左へ聞き流していれば、見慣れた一軒家がポツンと姿を表した。田舎だからか私有地が馬鹿でかくて、お隣さん家までは数十キロも離れている。挙げ句高低差も酷いときたものだから、先導するように石造りの階段を登った時には、二人とも汗だくで、シャツは染みるように透けていた。
玄関の前で、背後を振り返る。
「晴臣」
名付け親は寺院の僧だという。真面目で義理堅い、どこか古めかしい彼にピッタリな名前を少し茶化して口に出した。
「なんだ。鍵でも忘れたのか?」
「したらこんな呑気に会話してないよ。ん、受け取ってくんない?」
「?」
押し上げるような風に乱れた髪を整え、ブレザーの中から水色の手紙を取り出す。身長差から屈むようにして僕の手を覗き込むと、晴臣は受け取った手紙に首を傾げた。
それがさも迷子のような表情だったので、相変わらず鈍いやつだと苦笑に口角が歪む。
「B組の吉田さんから」
「ああ、ラブレターか。それで、それを一体全体なぜ俺に?」
「いや、だから」
合点がいったのかと思いきやそうでもないらしい彼に詳しい説明を付け加えてやれば、晴臣は短髪に隠しきれない耳をりんごの如く真っ赤にして、普段凛々しい眉まで困ったように下げると、筋張った手が口を覆う。
逡巡の末、まさか、と小さな声が降ってきた。
「こういうのは、大体唯人宛てかと……」
「君って自分のことになるとホント無頓着だよね。あと、確かに僕はモテるけど全員が全員僕みたいなのが好みってわけじゃ無いんだよ」
「自慢にしか聞こえないのだが」
「いやいや。事実だから」
幼少期から親類縁者にそろって「綺麗」と誉めそやされた顔だ。鏡を見るたび映る顔に特段感じることなどないが、実際赤の他人からは好かれやすい。
遺伝ゆえ日に焼けない白肌。色素の薄い茶髪と無駄に長いまつ毛で囲まれたヘーゼルの瞳。おまけに良家からこんな片田舎に嫁いだせいか、息子の美容にしか熱を入れられない母。
指の先まで洗練された美少年、という言葉が人口約千にも満たないこの村に浸透したのは、そう最近のことでもない。実に下らないことだが。
「で、どうすんのさ」
「どう、って言われてもな」
「いいじゃん。僕を仲介役にするくらい奥手な子が君を想って書いたんだよ?」
付き合っちゃえば、なんて言葉が続くのは分かりきっていたのだろう。さっきまで照れ臭そうに目を逸らしていたというのに、今度は至って真剣な瞳が一対、僕を射抜いた。
「──唯人。これはそういう生半可な気持ちで決めるべきことじゃ無いと思う。だから、明日学校へ行って直接吉田さんに話しを聞こうと思うんだ。それで……返事はその……しっかり、返そうと」
思ってる、とかなんとか。語尾を濁した言い方で普段の堂々とした態度は何処へやら、晴臣はそう言った。
その後の返事をどうしたかはもう覚えていない。
家に入るとすぐさま客間の畳に座って生ぬるくなったアイスを口に含み、ゴォーっと吹き荒ぶ冷房に二人して文句を言った。途中、彼が髪のセットの仕方とか、制服のオシャレな着こなし方とか、てんで柄にもないことを聞くものだから、口から出まかせであえて頓珍漢なことを教えてしまったのは記憶の片隅に残っている。
そんな風だから、罰が当たったのだろうか。
次の日、彼はいつもの黒い短髪を見る影もなく刈り取って、真夏の太陽に眩しく輝くほどの丸刈りへと変貌していた。
毎日第一ボタンで留められているシャツは大胆に第三まで開かれ、ただでさえ短い袖はさらに捲られて逞しい腕を覗かせている。ズボンと運動靴との間にチラッと覗くくるぶしには、僕達が小学生の頃プレゼントしあったミサンガまでつけられていた。
率直に言うととんでもなくダサいのだ。
「晴臣って結構馬鹿だよね」
「? 俺はアドバイス通りにしただけだ。どうだ、このミサンガなんて唯人から貰ったやつなんだぞ?」
「……それが何さ」
むフン、とやけに自慢げな顔で足首の古ぼけたミサンガを自慢するものだから、晴臣の言いたいことが薄々分かった気がして頰がひきつる。
「年がら年中モテる大親友のお前が、俺のためにわざわざ作ってくれたんだ」
「ペア組んで交換し合う、って条件でミサンガを作ったあの授業ね」
「そうだ。つまりこれは必殺のモテアイテム」
「うん、今どっからどこが繋がったの?」
「?」
「そういうとこだよ」
「どういうとこだ」
晴臣の家は代々剣道で生計を立てているからか、晴臣自身も幼い頃から体を鍛え上げ、程よい筋肉がついている。身長が平均以上ある僕でも見上げなければならないほど彼はタッパがあるし、僕から見てもかなり整った顔をしていると思う晴臣だが、それは所謂男が惚れる男というやつで、男子には好かれても女子には大抵怖気づかれてしまうのだ。
どちらかと言うとなよっちい僕なんかがモテるのもそう言った理由なのだろう。
無論、魅力に気づく女子は隠れているだけで実際には大勢いる。それこそ今回ラブレターを僕に渡すことを頼んだ吉田さんのように。尤も晴臣は気付く素振りすら見せないのだが。
何はともあれそんな彼が急に坊主になって、あまつさえ生真面目バカな取り柄を影も見せない制服の着崩しだ。言い出しっぺなりに、というかかなりの罪悪感が積もる。
「……吉田さんが何を言っても気にしないようにね。僕のせいだから、ほんと」
「何だ急に? そんな心配は必要ないと思うぞ」
父にも凛々しくなったなと頷かれた、なんて自信満々に言うものだから余計居た堪れなくなって僕はスッと目を逸らした。
今どき木造建築の校舎へ続くなだらかな丘を足早に通り抜ける。
背後をキープする晴臣が若干焦ったように声をかけて来るのすら無視して下駄箱に辿りつくと、HRより三十分も早く着いたせいか、そこはがらんどうで清澄な空気が漂っていた。
太い木枠で囲われた窓は学年主任が朝一番に全開にするため、今日もまた涼しい風を運んでくる。自分のプレートが貼られた靴箱に手をかけたとき、またも微風が通り抜けて、目にかかる程度の前髪が少し浮き上がった。
「唯人」
「なに? とっとと履き替えなよ」
壁に片手を添え、若干前のめりになって上履きを履いていれば、先程から靴を履き替える気配すらない晴臣が低い声を出した。
「なあ、具合でも悪いのか?」
「なんでさ」
「直感」
「あー……、なるほど? 多分ソレ寝不足のせいだよ。ほら、僕昨日遅くまで物理の課題やってたから」
「いや、そういうのじゃなくてだな。こう、なんというか……消えそう? そう、消えそう。消えそうなんだ、今日のお前」
「は? ……っ、と。なに。え、近いんだけど」
突然、鼻先がくっついてもおかしくない程の距離に近づいてきた顔。息を呑んで後退りすれば、背後の靴箱にこれ以上逃げ場がないことを悟った。
トンと手をつく音が耳のすぐ横で響いて、いわゆる壁ドン状態だということに頬を引き攣らせた僕に気付いてはいても、はなから遠慮する気はないらしい。不躾な視線で人の体をジロジロと覗き込んでは何かが引っかかるとでも言いだけに首を傾げる彼へ、乾いた喉から今にも出てしまいそうな言葉をぐっとこらえた。
『ずっとずっと、このままでいたい』
なんて、どうしようもなく浮かんでくるその類いの感情に、スゥと全身の血が冷めていくのを感じる。ああ、水風呂にでも浸かった気分だ。
さっきまで全く眼中にすらなかった時計の音がスポンジのように頭に染み込んで、次にあからさまに早まっていた鼓動が落ち着くのが分かる。。
もう大丈夫。分かってる。ちゃんと、弁えてる。
馬鹿みたいに膨らんだ感情はそうして蓋をされる。小さい箱に押し込められて、心の奥底、誰にも見つからない場所まで沈んでゆくのだ。どうかもう浮いてきませんように。そう、祈りながら。
その日、晴臣は告白を受けた。
彼本人から知らされるよりもずっと早くに僕はその事実を知った。他の誰でもない、「ありがとう」と嬉しそうに礼を言ってきたアイツの彼女──吉田さんの口からであった。
背を押したのは自分自身だというのに、なんて滑稽なんだろう。それでも、これで良かったのだ。これが正しいのだ。そう、理性が訴えるから。
放課後、改めて二人で挨拶に来た君達に無理やり口角を上げた。濡れていた目を隠すために、笑っているかのように瞼を閉じた。かすれそうな声を誤魔化すために、いつもより声を張った。
そうすればほら、完成だ。
「おめでとう」
清く正しい親友像の、完成。
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