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窓の外に張りついた蝉の音がやけに頭をよぎる。
いつもどうりの朝。寝室まで畳なのを嫌がった母がわざわざフローリングに張り替えた床を、そっと素足で触れる。必要以上に温度を下げた冷房のせいか、キンと刺すような冷たさが足の先から這い上がってきた。
思わず身震いする。
リモコンのスイッチを手に取り、いつのまにか『強』になっている風量を弱めれば、背後で冷房の吐き出すゴォーッという音は瞬く間に静まった。
それからすぐ、南に面した窓辺に寄って、腕を伸ばす。ざらりとしたレース生地のカーテン。白薔薇が丹念に刺繍されたデザインは、母のお気に入りだ。
真ん中に鎮座するリボンの結び目に手をかけると、繊細な生地が万一にも傷つかないよう、そっと解きほぐす。次いで閉め切られた窓に手をかけ、中の冷気を解き放った。
代わりにぬるま湯のような暖気が部屋を割り入るのを体は喜んで迎え入れる。麻痺した手先はじわじわと血の気を取り戻し、あやふやだった思考も明瞭に覚醒するのが分かった。
朝だ。なんら変わり映えしない、いつも通りの朝。
四角い部屋の中を一周、ぐるりと見まわした。
白を基調とした家具の中、ひときわ存在感を放つセミダブルのベッドが一台。そこから数歩のところには、横長のクローゼットが開け放たれたまま中の服を曝け出している。
それから、大きな姿見の横に母好みの豪奢な化粧台。さらに横へ目をやれば、白塗りの板で組み立てられた三段収容の戸棚に、整頓されて敷き詰められた美容品の数々。化粧水や乳液だけで何十種類とあるのに加えて、日夜使い分けの美容液や、日焼け止め、美容パックにヘアミスト。極め付けは外国産の無駄に長い名前を持つ香水がずらりと並んでいた。
見ているだけで目の奥がチカチカする。逃れるように視線を逸らして、唯一自分で選んだ木彫りの勉強机に足を近づけた。
凹凸のないなだらかな机上には、知らぬ間に置かれたメモが一つ。
『今日は湿気が強いから1番ね。ゆーくん』
鷹司唯人だから、ゆーくん。安直なネーミングだが僕をそう呼ぶのはあの人しかいない。
本日二度目のため息をつくと、母の指示に従って先ほどの戸棚へ近づいた。一番上の段から今日使う用の美容品──数字の1が刻まれたラベルを貼っ付けてある──を数本手にとり、片手に抱え込むような形で自室のドアを開いた。
歩くたび、液体がたぷたぷ揺れる。
波音のようなソレと、たまに聞こえる虫の鳴き声とをBGMにして、自室から一気に和へと様変わりした廊下を通り抜けた。
一段降りると、ギィイと木造の階段が金切り声をあげ、ほんの僅かに埃が舞う。旧い家だ。長男である父がこの土地一帯を譲り受けてからはや十五年。その年月の間も改修工事は一度も行われていない。なんとか母が口を挟めたのは僕の寝室に関してだけで、他は一切妥協を許さなかった。明治から焼け落ちることなく受け継がれ、先祖代々住み続けた家の価値を低めるわけにはいかないから。それが父の言い分だ。
一階の洗面所についてすぐ、タライに溜めたぬるま湯で顔を洗う。タオルで水気を切りながら年季の入った鏡を見れば、水垢に混じって明らかに寝不足な僕の顔が映っていた。
はは、わかりやす。
思わず自嘲の笑いが溢れる。いかに人から褒められる容姿をしていようと、今の自分を見たら他人は距離を置くだろう。立ち尽くして、そんな風に下らない事を考えたのは、この茹だるような夏の暑さのせいだ。
……あほらし。
そう決めつけると、僕は一人だけの洗面所をそそくさと後にした。
ちりんと軽やかな風鈴の音。
青空の下を山からの風が吹き抜けたせいで、軒下にぶら下げられたそれらは幾重にもこだました。それだけでなく、道にはまだ明かりのついてない提灯が段ボールに敷き詰めて並べ置かれている。
全ては『夢幻道祭り』のためだ。
山の神社から麓の空き地まで続く石畳の道を、ここでは夢幻道と呼ぶのだが、毎年その区域に村人が集っては夏祭りを開催する。これには神主さんのご厚意が必要不可欠で、私有地を一時的に貸し出してもらっているということを忘れてはならない。村の子供なら幼い頃から親に言い聞かされる事の一つであって、例に違わず、僕も父からよく言い聞かされ育ってきた。
準備は村人総出だ。
毎年八月三日に行われるから学校のない僕達高校生なんて最たる労働力。力仕事を余儀なくされるのは言うまでもない。
「手伝いますよ村田さん」
「おや、鷹司さん家の子じゃないかい。名前はたしか」
「唯人です。っと、どこ迄ですかコレ?」
「まあまあ、ありがとねえ唯人君。上の神社までよ。にしても美男子は違うわねえ。家の隆介ったらてんでヤンチャで」
「あはは、言っときます。隆介のやつ、多分給水所で休んでるんで」
「んもう、本当にできた子だあ。ありがとねえ。気をつけるんだよ」
受付セッティングの準備を終え、随分と手持ち無沙汰な時間。
同級生である隆介の家のおばあちゃんが段ボールを一人辛そうに運んでいたのを見兼ねて、思わず声をかけたのだ。
「はあ、しんど」
それが実に浅はかな考えだと気付いた頃にはもう後の祭りでしかない。想像以上の重量に中を覗き込めば、金属の骨組みがぎっしりと詰まっており、しかも目的地は夢幻道の最奥、神主さんのいる本堂だと言う。
コレを村田さんは一人で運ぼうとしていたのだ。それならまだ僕が引き受けて良かったとは思うが、どうしても後悔の念は生まれてしまう。
太陽が真上に昇った真昼間、日陰もろくにない熱された石畳の道を歩くこと数十分、まだ道の半ばと言ったところだろうか。上がった息を整えようと段ボールを下に置いて、両膝に手をつきながら弱音を吐いていた。我ながら情けない。
そのまま立ち尽くしてしまいそうな足に鞭打って再度動き出そうとした時だ。
「──よこせ、俺が持つ。代わりにお前はこっちを持ってくれ」
「な」
「まったく、無茶をするな唯人。お前はこういうのに向いてないだろう」
「いや、いやいやいや。なんでいるの晴臣」
いたら悪いか? とでも言いたげな表情で片眉をクイッと上げる彼に言葉がつっかえた。それから数秒の間逡巡して、背中越しに赤い看板を指差した。
「さっき屋台の骨組みしてたばっかでしょ。まさか、もう終わったわけ?」
宮大工の人が中心になるが、器用かつ力の強い晴臣は準備中あちこちから引っ張りだこになるのだ。今年は十八になったのもあって本格的に設営を任されている。
見つめ返せば、こめかみからしっとりと滲む汗を首にかけたタオルで拭って、苦笑を浮かべた晴臣が口を開いた。
「それなら重要な部分だけ済ませたから後は全部退屈そうな隆介に任せたぞ。泣いて喜んでたな」
「うっわ、百パー嫌がってるやつ。大体アイツが仕事をしたがるわけがない」
「働かざる者食うべからず。言うだろ? あんだけ当日にはしゃいでんだから今年こそはもっと働かせるべきだ」
どうやらいつも人に優しい晴臣であっても、学校一のお調子者な隆介には優しくあたる気がないらしい。後で彼のおばあちゃんから頼まれた言伝のついでに、冷えた飲み物でも買って行ってやろうか。
アイツの好きな蜜柑ジュースでも良いかな、なんて晴臣の好意に押し負け荷物を運んでもらう道すがら、ふと湧き出た疑問をポツリとこぼした。
「君ならなんだかんだ隆介に仕事させつつ自分も一緒にやってあげそうなのにね。そんなに一方的なの珍しくない?」
まさか押しつけるだけ押しつけて、本当に置いて行くとは。隆介も夢にも思わなかっただろう。それぐらい普段の晴臣がお節介焼きだというのは男子の間じゃ周知の事実だ。
「ああ、俺も初めはそのつもりだったんだがな。ちょうど唯人がいたから」
「いたから何さ」
「休憩時間だ、と思って」
「働いてんじゃん? 僕のせいで」
「まあ、そうとも言うな」
それじゃあ何か。困った様子の僕のために、仕事を中断して駆けつけてきたとでも言うのか。
ポリポリと頭を掻いて、誤魔化すような笑いを浮かべる彼に、込み上げる感情をそっと隠し込んだ。
「……今年の花火係、凄いこき使われてるね」
上へ上へ。赤い鳥居を頂上に、真っ直ぐ延びる石畳の坂道。一歩一歩、着実に進んでうっすら見えて来た頂には、白い作業着を着込んだ男達の姿が。
「掛け声ここまで聞こえて来るんだけど。あそこだけ熱量おかしくない?」
「山津のじいさんが帰って来たからな。世界有数の花火職人が引退前最後の仕事をウチで飾るってんだ。借り出された男陣がヒイヒイ言いながら精出すのも無理のないことだろう」
山津といえば、隣のクラスの温厚そうな少年が思い浮かぶ。バスケ部の主将をしているはずだ。
「じゃあ山津はおじいさんの跡を継ぐの? 記憶が確かなら推薦貰ってなかったっけ……」
東京の有名な大学からバスケ推薦を貰った、という噂が一時期校内を騒がせていたのを思い出して、僕は首を傾げた。
「それがなあ」
「意味ありげだね」
「じいさんが反対してるんだと。隆介が心配そうに言ってたんだ」
「え、待って。山津と隆介って仲良いの?」
「いや? あそこは家が隣同士なだけで特別仲良いわけじゃない。……ただ、一度夜中に揉める声が聞こえたらしくってな」
今も上から響いて来るしゃがれ声。あの人が本気で怒ったらそれはそれは怖いだろう。果たして、温厚な山津がまともに言い返せたのだろうか。
将来の話だ。簡単に折れてしまわなければ良いが。
「じゃあ山津、今頃おじいさんにシゴかれてるんだろうね」
「ああ、上で汗水垂らして必死だろうな」
兎にも角にもあそこに配属されなくてよかった。ひっそり胸を撫で下ろすと、晴臣にはお見通しだったのか。
猫のように目を細めた彼が、茶目っ気を含んだ声で言う。
「どっちにしろ唯人にあんな力仕事は回ってこなかったと思うぞ」
「あっは、それはどういう意味かな晴臣」
「さあ、どうだろな」
「おいこら」
揶揄うんじゃないとムッとした目を向ければ、悪いと謝るわりにちっとも悪びらない顔で晴臣は運んできた荷物を足元に置く。
目的地に着いたのだ。鳥居の端、青いレジャーシートが敷かれた上で、二人揃って息をついた。
「ありがと。アイス奢るよ」
「お。じゃあ」
「スイカバーでしょ? お見通しだっての」
「……おお、流石親友。ありがとうな」
「ん。行ってくる」
祭りの準備期間中は手の空いた巫女役の子たちが手押し車で氷菓子や飲み物の販売をしているのだ。朝から男どもを尻目に神社の影でキャッキャしていた女子達を思い出し、少し足が鈍る。
けれど立ち止まるわけにはいかなくて、すれ違うたびかけられる住人の声に笑顔で返しながら、僕はポッケの中の財布を固く握りしめた。
「あ、うそ、鷹司先輩?」
「きゃ、素敵」
はじめに目の合った少女二人。僕よりも一二歳年下だろうか。高い声が響いて、その場の女の子達に伝播していく。
視線が集まった。
「あの、せんぱ」
「やだ、唯人君じゃない。相変わらず美少年」
「え、作業着ですら似合ってるんだけど。やっぱカッコいいから何でも着こなせちゃうんだね」
小走りに近づいてきて後輩の声をかき消したのは、同じクラスの子達だ。
これが晴臣だったら気づかないだろうな。彼女達が牽制のために声をかけて来たということを。普段そこまで親しい仲でも無いのに。
成長するにつれて嫌に聡くなってしまった女子達の事情に、内心ため息をついて笑顔を貼り付けた。
「はは、照れるな。ありがとう。……二人は今休憩中? 出来ればアイスと飲み物買わせて欲しいんだけど」
どこにも見当たらない手押し車にタイミングをミスったかと焦る。そのまま困ったように眉を下げ、首を傾けた。身長差から上目遣いでこちらを見上げてくる同級生達に「ダメ?」と一言。
聞けば、一瞬黙った彼女達から快い返事が返ってくる。すぐさま奥へと姿を消した二人は、台車とともに戻ってきた。おかげで飲み物とスイカバーは無事回収できたのである。
「本当にありがとう。二人とも当日は巫女さん衣装だっけ? 可愛い姿、期待してるね」
じゃ、と手を振りながらウィンクをすると、二人だけでなく後ろで成り行きを見守っていた子達からも黄色い声が挙がる。
やがて一人になれば、猫をかぶった自分に辟易した。
いつからだ。他人に飾ることを覚えたのは。
小さい頃は何にも考えなくて良かった。少なくとも晴臣といるとき。二人だけの、あの時間だけは。
ビニール袋の表を、滲んだ水滴がこぼれ落ちる。
地面にできた小さなシミを足で踏み潰して、もと来た道を辿った。
「あれ、晴臣?」
てっきりブルーシートの上で休んでいると思っていた友人の姿が見当たらない。あちこち見渡すもそれらしい影はなく、ただシートの上の皺だけが確かに彼の存在を証明していた。
後ろから肩を叩かれる。振り向いてみれば、見知った顔。
「──隆介」
「よっす、唯ちゃん。なーにやってんの?」
「いやそれこっちの台詞だから。設営は? 任されたんでしょ?」
訝しむような視線をじっと送る。すると慌てた風に両手をひらひらさせ、彼は言った。
「宮大工のおっちゃんが荷運び終わったら今日のところは解散って。想像以上に午前の進みが早かったらしいぜ」
「もしかして晴臣?」
「そそ。アイツマジ有能。おかげで作業捗りまくりだっておっちゃん達褒めてたわ」
ラッキー。
なんて軽く笑う彼に、そういえばと切り出した。
「晴臣どこにいるか知ってる? 十分前までここに居たはずなんだけど」
隆介の鳥の巣みたく跳ねた黒髪を撫でつけてやると、軽く頭を下げてくる。僕の癖であるそれは相手もとっくに分かっていて、やりやすいように姿勢を合わせてくれるのだ。
そのままの状態で答えが返された。
「んー、あの子。吉田さん? だっけ。声掛けられてどっか消えてったのは見たんだけど」
「……なるほど、彼女ね」
「あ〜ヤダヤダ。遂にあいつまでモテ始めるとか。ただでさえ少ない女子の大半が唯ちゃんにホの字だってのに」
「君も黙ってたらモテると思うけど?」
「それじゃあ俺のアイデンティティ帳消しじゃん? 勿体無いっしょ」
自覚があってそのつもりならしょうがない。こいつも顔だけは良いのだ。ただソレを隠して余りあるくらい残念さが際立つだけで。
「ぐぬぬ。その視線、失礼なこと考えてるなあ唯ちゃん?」
「うん、まあ」
曖昧に笑えば瞬く間に萎びた様子の隆介に、持っていた袋ごと丸々ズイッと押し付けた。
「これ、アイスと飲み物。要らなくなったから貰ってくれない? ちょっと溶けてるかもだけど。あと隆介のおばあちゃんから伝言ね」
「おお、ありがた……ってばっちゃんに会ったんだ? え、なんてなんて?」
「塩むすび家にいっぱい作ってあるから今日の夜はそれ食べろって」
「イヨッシャアーー!」
ガッツポーズして馬鹿でかい声を出す彼に、一気に周囲から視線が集まる。それが村田家の子だと気づいてすぐさま苦笑に変わると、何故だか僕まで気恥ずかしくて隆介の腕を強く引っ張った。
「うえ、急になんだよ」
「帰るんでしょ? やる事ないから一緒に帰ろうと思って」
「なーる。 ……って珍しいな、唯ちゃんが俺と帰るの。晴臣は?」
「彼女優先。邪魔者はさっさと退散に限るよ」
言って、振り返りもせず坂道を下り降りる。
背後で大人しくあげたアイスを咥えながら引き摺られる隆介が、道の半ば、突然「あっ」と間抜けな声を挙げるのに、ピタリと足が止まった。
「山津と約束してんだった」
「約束?」
「そう。なんか相談事があるって」
「……なんで隆介に?」
「いや、俺も思ったぜ? でも将来の話はそこまで仲良くないヤツの方が話しやすいからって。……なあ、これ唯ちゃんに言って良いやつだった?」
「そんなの僕には分かんないよ」
遠くで練習の祭囃子が聞こえる中、二人して気まずい顔を向ける。
「……大丈夫。今聞いたことは明日にでも忘れるさ」
軽くへこむ隆介の肩を叩いて、曖昧な笑顔を浮かべた。
「マジ神」
「はいはい。んなことより、何だかんだ腐れ縁の君を頼った山津のこと真剣に向き合ってあげなよ」
「おお。唯ちゃんイケメン」
「急に何。何もしてあげる気ないけど」
「いやいや本当に……って、あ」
「? 突然どうし」
……なるほど、やらかしたな。
僕の背後を見て静止した隆介に、同じく振り返ってピキンと固まる。
赤茶の硬そうな短髪が清潔感あるセットをされて、ガタイの良い長駆が若干屈むようにこちらを覗き込んでいるのだ。山吹色の着流しから察するに、割り振られた仕事をとっくに終え、作業着から着替える余裕すらあったのが分かる。
「あー……、もう聞いちまったんだけどさ。今からでも知らないフリした方が良いか?」
優しそうに細められ皺の出来た目元が、涼しげな様子でこちらを伺う。若干気まずそうでもあった。
「ごめん山津。部外者はとっとと消えるから。あ、そうだ。隆介に渡した袋の中、蜜柑ジュース二つ入ってるから。良かったら一緒に飲みなよ。じゃ」
「ストップ」
「お……っと」
完璧に去る流れだと思ったのだが。がっちり腕を掴まれた反動でタタラを踏んだ。
その原因は山津で。隆介にもまして関わりの薄い僕を、一体何のために彼は呼び止めたのか。
「別に、誰にも漏らす気ないよ?」
僕よりも頭二つ大きいくらいの背で、首が痛くなるほど上を向かないと見えない顔。
優しそうだけれど、どこか不安そうな感情が入り混じる山津の様子に僕は安心させるように言った。
「そうじゃないんだ」
「え、そうじゃないんだ?」
「え、そうじゃねぇの?」
てっきり勘違いしていたのは隆介も同じらしい。
思わず重なった二人の声に忍び笑いをしながら、山津は続けた。
「鷹司にも聞いてみて欲しくてな。隆介との会話聞いてたら凄く良い子そうだったから」
「は、何ソレ……照れるんだけど。恥ず」
「ん? 唯ちゃん俺が褒めた時と反応違いすぎじゃね?」
「でも本当に良いの? 完全に赤の他人だけど」
「ああ。むしろそっちのが正直に話せる」
とりあえず後ろで喚く隆介を置いて、本当に混ざっても良いものかと首を傾げる。
快い返事にまだ躊躇しつつも、人目のある夢幻堂を三人で下り終え、いつもの通学路も横切ると、あたり一面を田んぼが並ぶ畦道へ出た。
もう時刻は黄昏時だ。
雲のないオレンジ色の空を見上げて、人心地つく。
時間の経過が早い。今日はなぜだかそう感じる。
僕と晴臣がいつも右に曲がる三又の道を普段左に曲がるという彼ら。
中間をとって真ん中の道、少し進んだところにある小さな自販機を見つけ、その横にあるベンチに座った。ささくれだった木製のベンチは三人分の体重で小さく悲鳴を上げ、道脇の野花が今にも風で吹き飛びそう揺れていた。
酷く侘しい風景だ。
結局、作業着のまま出たせいで肩にかけっぱなしのリュックを膝の上に回して、ぎゅっと抱え込む。山津の覚悟が出来るまで、無限にも感じる沈黙をそうしてやり過ごした。真ん中に座っていた隆介も居心地の悪さを誤魔化すためか、あげた蜜柑ジュースを小口に飲み続けていた。
数分、実際にはもっと短かったかもしれない。
第一声は、
「──俺、海外に行きたいんだ」
芯のある声だった。
「かい、がい。……海外? え、ガチで? もっとこう、都会に行きてぇとかそういうんじゃなく?」
「ビックリした。思ったより大きい話だね」
想像よりもちょっと上を行かれた気がする。
てっきりバスケ推薦を貰った大学が東京にあり、家族に反対されている……だとか。そういった類いのことを話すのだと思っていた。
隆介と二人して見つめれば、困ったように笑って、山津は暖かみのある声を心持ち潜めながら言う。
「実は、海外の大学から推薦の話を貰っていてな」
「待って超初耳なんだけど。てかそんなバスケ部強いの?」
「隆介、うちの高校インターハイ常連。というか去年優勝した。山津はMVP貰ってたし。まさか、知らなかった?」
「全く知らなかった……」
山津への驚きが隆介への驚愕に塗り替えられる。
祝福の横断幕が校舎をあんだけ堂々と飾っていたというのに、コイツは去年一体何を見ていたんだ。
二年生ながらレギュラーを張って得点王として帰って来た山津は、暫く学校中から英雄のように持て囃されていた。
「うーん、まあ、そういう隆介だから俺も変にプレッシャー感じずに接せるんだよな」
からっとした笑顔で笑い飛ばせる山津の懐の広さと、それに「マジで? なら良かったわ」とあっさり納得してみせる隆介のポジティブさ。
なるほど、付かず離れずの腐れ縁ってすごいな。
妙な感動を覚える。
「で、だ。海外に行くのは良いんだけど肝心の費用がな」
「んあ、じっさんに許可されたんだ?」
「え、大丈夫だったの?」
「うん。多少揉めたけどプロになりたいって心は絶対曲がらないから。最後には根負けして折れてくれたよ。応援するってさ」
いつもは頑固なおじいさんもたった一人の孫には弱いらしい。ちょっとだけお茶目な瞳で笑った彼に、少し緊張が解けた。
家族の問題って本当に大変だから。自分に出来ることは無いだろうと不安だったのだ。
「でもよう、費用つったって幾ら掛かるんだ? 下世話な話、山津のじっさんが滅茶苦茶稼いでるだろ? おやっさんも今世界飛び回ってるって話だし。心配する必要なく無いか?」
そう。山津家といえば年がら年中世界を飛び回り、あちこちに引っ張りだこな凄腕の花火師。おじいさんに至っては去年某国の首相から直々に晩餐の招待を貰ったという。
他に化学工業関連の企業にも手を広げていて、幾つか会社を持っていたはずだ。
「……まあ、そう、なんだがな」
「はっきりしねぇなあ。なんだよ、正直に吐けって」
「言っちゃった方が多分楽。溜め込まない溜め込まない」
「出来れば、聞いても馬鹿にしないでくれると有り難い……」
「しねえって」
「しないから」
二人して背中を押せば、踏ん切りをつけた山津。それでも、口元の黒子は不安そうに揺れていた。
「お金のことで迷惑をかけたくないんだ。俺の家みたいに恵まれてる奴が何を言うんだって思うかもしれない。けど、出来るだけ自分の力で乗り越えたい」
「……ふぅん? 良いと思うけど。後は初期費用だけ最低限もらっといて、稼ぎ方を模索していけば。海外にも山津の会社あるでしょ。コネでバイトさせて貰いなよ」
ありのまま思ったことを口に出せば、拍子抜けしたような表情を返されて、思わず笑いが溢れる。
「あっは、何? 鳩に豆鉄砲でも食らったわけ?」
「……いや、なんというか、その」
「うんうん。俺は分かるぜ山津。唯ちゃんはクソ格好良い。クッソ格好良いんだよ」
「……ああ、本当だな。初めて見た時こそ同じ人間か疑うくらいだったけど、そういう次元も飛び越えてカッコいいヤツだ。もはや嫉妬心なんて湧くだけ無駄に思えるよ」
二人揃ってなんなんだ。気恥ずかしさに下を向く。
顔は誉められ慣れていてもその他は門外である。
それを知ってか知らずか、隆介が僕の自慢染みた話を永遠言って聞かせるものだから、素直に相槌を打つ山津へブンブン頭を振り、自身の弁明をし続けるのであった。
「やめてって」
「いーや、やめないね。こいつ、去年の修学旅行で海外行った時なんか金髪のグラマラスなお姉様達に滅茶滅茶可愛がられててさ」
「ほう」
「一人にしたとたん絶対一人にならないわけ。おかげで班員は目を離さないルールが出来たんだよ」
「だから去年異様にそっちのクラスが集団行動してたのか」
「そーそ。あ、いっちゃん怖かったのは強面の男がベンツから降りてきた時な」
「ちょっ、その話は」
「詳しく聞かせてくれ」
なんでそんな乗り気なんだ。
ワクワクした様子の山津に思わずため息が漏れる。
「班員が一人アベニューで迷子になってさ。仕方なく迎えに行った連中を待って、俺と唯ちゃんでガードレールの前に突っ立ってたわけよ」
「それで?」
「そのまんま。急に黒塗りのベンツが俺らの前に止まって。中からスーツきたオニーサンが出て来んの。んでもって俺なんか眼中に無し。真っ直ぐ唯ちゃんのとこ来てさあ」
──Can I have your number ?
君の連絡先が知りたい。
「なーんて言うんだよ」
「完璧な口説き文句だな」
「それな? やっぱ唯ちゃんってエグいっしょ?」
「あああ〜もう。言うなって。偶々その人に好かれる顔だったんだよ」
思わず膝から崩れ落ちて、顔を覆う。そのまま苦し紛れに言い訳をした。
「でもなあ、普通に男女問わずモテる顔してるんだよ。美形っつうより……美貌?」
「何が違うのさ」
「いや、俺は分かるぞ」
ダメだコレ。すっかり意見が合致したらしい彼らに、手のつけようが無いと悟りを開く。
別にモテるのがなんだと言うのだ。肝心の──
「好きな人にはモテないのに……」
「え?」
「ん?」
ハッとして口を覆う。けれど遅かったようだ。思わず漏れた本音を嗅ぎつけて、二人の関心が一気に寄せられた。
「嘘嘘嘘。難攻不落の唯ちゃんに恋する相手? てか唯ちゃんで落とせないって信じらんねえ」
「相手は相当鈍感なのか? それとも鷹司が自覚したのが最近ってだけで……」
ここまで来たら後にも引けない。逃げ道を埋めるように両サイドからガッチリ腕を掴まれて、ベンチの中央に座り直された。
本当、何やってるんだろ自分。
「……何気に恋愛経験ゼロなんだよね。歴戦の猛者みたく言われても別に誰かと付き合ったことないし」
「え、あんだけ連日告白されといて? まさかまさかの全フリ?」
「はは、にわかには信じられないな」
「いやいや、ほんと。……小さい頃から好きな人がいたから。ずっとその人しか目に入らないし。そうやって想い続けてかれこれ十年以上?」
吐露した言葉の意味を理解して、二人はさらに驚いた顔をする。その顔がしたいのは僕もだ。自分ですらなぜ晴臣をあんなにも好きになってしまったのか。
てんで分かっていないのだから。
その日はそこで解散となった。最後まで相手をはぐらかす僕に二人は納得いっていないようだったが、これ以上吐く気がないことを悟ったのだろう。
追求は諦めてそれぞれに応援の言葉を贈られた。
「頑張れ、ね」
辛いだけなんだ。
顔を見るだけで舞い上がって、それからすぐに痛くなる。もう良い加減離れて諦めれば良いのにさ。でも、上手くいかないんだ。勝手に体が拒み続ける。
一度考え出したら堰を切ったように本音が止まらなくなった。気づいたら目の奥が熱くなって、視界は茹だるようにぼけていく。
「んえ、どうしよ。止まんな。あは、馬鹿みたい。なんで。別に泣く気なかったのに」
手の甲で何度も何度も瞼を擦る。それがちっとも効果に表れなくて、余計力がこもる。
『こっちだ唯人。あの雲、お前に似てる』
『馬鹿にしてんの?』
『む? ……よく見てくれ。あのくるんと曲がった先っぽの部分がだな』
記憶の中の彼の声が余計惨めさを感じさせる。日暮れの夏、一人ぼっちの帰路で。
離別の覚悟はまだ、出来ていなかった。
八月三日。
人混みで賑わう夜の河川敷。
夢幻堂祭りのクライマックスは、山の上空に打ち上がる花火を麓の河川敷から楽しむ。
「おーい唯ちゃん! こっちこっち!」
昔懐かしい、戦隊アニメのお面をつけた少年。ジンベイの縦縞に入った緑の和柄が動きに比例して皺を作り、彼の活発さをアピールしていた。両腕に四つもビニール袋をさげぴょんぴょん飛ぶので、中身が飛び出すんじゃないかと慌てて近寄る。
するとすぐに、焼きそばとイカ焼きの焦げた匂いが鼻先をくすぐった。
「ここ?」
「そうそ。俺らの特等席!」
関係者しか立ち入れない区域にある二本の木。その真ん中に敷かれたレジャーシートを見て安堵する。思ったよりも一般席から離れていて、周りの人達とも距離を置いた場所であるのが有り難かったのだ。
「いいのかな。僕なんて隆介のついでに居ただけなのに」
相談事のお礼として山津が用意してくれた席は、前に遮蔽物が一切なく、流れる祭囃子も鮮明に聞こえてくるほど静かで澄んだ空間だった。
二人用の細長いレジャーシートに、そっと腰掛ける。反動でパリッとした音が鳴るのも心地が良い。
「いいんひゃよ。やはふがそふいってるんらはら」
「飲み込む」
「んぐ。……と、良いって良いって。山津が助かったって笑ってたぜ。あと、花火楽しみにしていてくれってさ」
今花火師達が山頂で頑張っているところに孫の山津も加わっているのだろう。
一番近くでおじいさんの最後の仕事を見届けるのだ。
なんだか関係のない僕達まで事情を知ると込み上げてくるものがある。
「ねえ、本当に良かったの? 隆介、毎年おんなじ奴らと連んでるのに今年だけ僕に付き合って」
「あーはいはい。な、俺唯ちゃんと見たいからここ来たんだぜ? 嫌なら嫌ってハッキリ言うし。人に気遣いしすぎっしょ唯ちゃんは。ほら、これ美味い」
「んぐっ……? え、美味し」
「だろー? 俺のばっちゃん特製焼きそばだかんな!」
ピースサインで笑う隆介にこくこく頷いて、丸ごと渡された焼きそばに齧り付く。うん、美味しい。
次に差し出されたイカ焼きにも口をつけた。すぐさま芳しい醤油の味が舌の上にとろける。
「はあ、最高。これでお酒が飲めたらなあ」
「二十歳になったら飲めんじゃん。したらまたココで食いながら花火見ようぜ」
「……まあ、うん」
「え、何その塩反応。はっ、まさか唯ちゃん、この俺を差し置いて他人と?」
「いやいや、そういうんじゃなくて」
曖昧な返事にまるで恋人のようなリアクションを返され苦笑する。それからすぐ首を横に振った。
「その時にはもういないと思うから」
「……どういう意味?」
隆介の声が低くなる。ああ、今の言い方じゃ誤解させる。そう思い至ってなんてことないそのワケを口に出した。
「大学は東京に行くよ」
「ええっ? マジ?」
「まじ」
「……はああ、まじか。山津も唯ちゃんも。揃ってここ出ていくんな」
寂しげな声だった。
川の上を蛍が点々と浮かび上がると、やがて山の奥に消えていくのをぼんやり眺める。
夜空には数えきれないほどの星が輝き、村役場からのカウントダウンは鮮明に耳へと入ってきた。
最初の花火が打ち上がるまで、あと一分。
「それ、晴臣にちゃんと言った? 最近、ってか今日もだけど。唯ちゃんアイツと全然会えてねぇじゃん」
なあ、なんて。
紙コップ二個分の距離で、笑い混じりに聞かれる。横を向けば、隆介は肩を軽く跳ねさせ、おどけたような顔をして僕を見ていた。
その表情は、計算なのか。
ぱたぱた、和紙のうちわで首元を扇ぐと、その音はやがて宙へと掻き消える。
「言うよ」
「じゃあ」
「まだ。晴臣、初めての彼女とお祭り行くの緊張してたからさ。そこに水差すようなこと言えないでしょ」
「……良いの?」
「何が? そんなことより、ほら」
「唯ちゃんがそれで良いなら」
「上がるよ」
「俺は何も言えないけど」
「花火」
弾けた。何度も何度も。美しくて、壮大で、それでいて儚い。
脳裏に焼きつくような赤だった。
それは、毎年君と見てきたどんな花火よりも鮮烈で。
きっと、生涯忘れることのない。
夏が行く。君を残して。
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