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シーツがぐしゃぐしゃになるのも構わず、僕はベッドの上を後退りし続ける。数秒もせず背中が壁に当たって、恐る恐る視線を上げると、かち合った黒い瞳に固唾を飲んだ。
沈黙が部屋を満たす。
お互いに引けない状況。先に口火を切ったのはやっぱり晴臣で。その口を塞ごうと伸ばした両手は簡単に止められて、挙げ句の果てに壁に縫い付けられる。
「頼む唯人、お前しかいないんだ」
「待って」
「どうしても恥をかきたくない」
「いや、だから」
「なあ、お願いだ」
「ちょっ」
「俺に、本番の作法を教えてくれないか」
夏休みも終盤。
不躾に家を訪ねてきた晴臣を見て、真っ先に感じた嫌な予感というのはまさにこのこと。
僕は唇を戦慄かせ、暫しの間言葉を失った。
「……じ、自分が何言ってるか分かってんの?」
「? 当たり前だ」
「あっ、……あたりまえじゃないだろ! 親しき中にも礼儀あり!」
「俺達は親友だろう?」
「そうだけど、そうじゃない! デリカシーの問題なんだ!」
「なあ唯人、そうカッカしないでくれ」
「するだろ! あと、手! 早く離して!」
埒の明かない状況にギャンギャン吠えれば、晴臣も観念したのか渋々僕の両手首を離した。ああもう、ちょっと赤くなってる。こいつ力強いくせにリミットをかけるのが下手だから僕の白い肌じゃくっきり跡が残るんだ。
じとーっとした視線を向ければ、彼は情けなく眉を下げ、罪悪感から顔を逸らした。
晴臣のそういう態度に僕が弱いって知ってるくせに……。
はあ、と見せつけるように頷いて、僕は水に濡れた子犬のような目つきでチラチラこちらを伺う親友に、うっと胸を詰まらせながら言ってやった。
「ムードが一番大事なの。絶対に無理強いはしないこと」
知らないけど。
経験無いし。
思わず続きそうになった言葉達を口の中で噛み殺す。それが今できる精一杯だったから。
後のことは聞きたくもなかった。
だけど多分、「ありがとな」と照れるように言われたあの日は、僕にとって死んだほうがマシだと思うくらい惨めで情けなくて、それでいてどうしようもなく忘れられない記憶で。
女の香りが嫌い。
大嫌い。
なのに、その匂いを纏った君を嫌えないでいる。そんな自分が一番、大っ嫌い。
夏休みが終わると受験期のピリつきが一層激しくなる。うちは名ばかりとはいえ進学校だから、先生達も僕達生徒に熱を入れて指導をする。
そんな中でほぼほぼ内定している推薦組は肩身が狭いのか、裏庭のベンチに座る彼の姿を目に入れたのは、図書室帰りの窓からだった。
夕日が差し込む背中はどこか寂しげな空気を醸し出している。
「おーい、山津」
開けっ放しの窓枠に手を掛け目の前の彼を呼べば、振り返った目が驚きに見開かれた。
「珍しいな、俺に声掛けるの」
「まあそこまで仲良くないしね」
「ブッ、はっきり言うなよ」
「はは、良いじゃん別に」
周囲に人けが無いのを確認して、窓枠を乗り越えると、上履きのまま地面を踏んだ。それからさりげなく横にズレて空けてくれたスペースに腰を下ろす。
「勉強しなくて良いのか?」
「言ってなかったっけ。僕東京の大学にAO合格貰ってる」
「おお、スゲー」
「いやいや」
好きな作家さんの本を膝上に乗せて、背筋を丸めながら上目遣いに山津を見上げた。
「未来のNBA選手には敵いませんって」
「サインやろうか、今ならファン第二号になれるオマケつき」
「一号の座は隆介?」
「いいや、俺のじっちゃんだよ」
「じゃあ仕方ないかぁ」
はい、と手のひらを差し出せば、彼は恭しく僕の手を受け止めて、厚みのある長い指でそっとフルネームを書いていく。
指の皮が硬いからか、ザラッとした感触が擽ったくて、時々笑い声が溢れた。
「はーっ、今度はちゃんと色紙持って来るから。本気で書いてよ」
「もちろん」
髪の毛をそよ風が揺らす。茜色の空にじわじわと湧き上がる夜の気配が物悲しくて、山津が何も尋ねないのを良いことに僕は黙って空を見続けた。
沈黙だけが流れていく。
花壇に植えられたペパーミントの花は、移りゆく時間の中に紛れて、夜とともに咲き誇る。鼻先に運ばれた匂いに目を細めたとき。
それは思いつきだったのか、それとも必然だったのか。
「俺、ゲイなんだ」
突如ぽろっと落とされた爆弾を、どう受け止めれば良かったのかなんて、僕には分からない。ただ不自然なほど動揺して、何も言えずにその場を離れてしまったのは間違いだったと。
翌日の朝、傷ついた顔で僕からあからさまに目を逸らした山津を見て、はっきりと自覚したんだ。
「聞いてるか唯人?」
「ごめん晴臣、先行ってて」
去り行く背中に追いつきたい一心でなりふり構わず廊下を走り出す。背後で晴臣の引き止める声が聞こえたが、今だけは気づかないふりをして。
いいや、気づきたくなかったのかもしれない。
「……や、やっと……追いついた……」
屋上に繋がる扉の前で立ち止まり、僕を見つめる山津は。何段も階段を駆け上がったせいで息が上がっている僕とは対照的に、酷く涼しげな顔で佇んでいた。
それに流石スポーツ選手と揶揄する気も起きなくて。
開幕早々、
「僕もなんだ!」
と、叫び声にも似た声量で彼に話しかける。
「僕もっ……」
ずっとずっと男の人が好きで。
だから、君と一緒の。
「──違うよ」
言葉に詰まりながら続けようとした話を、山津は穏やかに一刀両断した。
呆気に取られて彼を見つめる。その顔はまるで全てを見透かすように笑っていて。
「違う。鷹司はさ、好きになった奴がたまたま男だったんだろ?」
階段のヘリに座って、彼は自分の横を指差した。
「座れよ、疲れただろ」
「……うん」
大人しく隣に腰を下ろす。
まだ心臓はバクバクと鳴っていて、山津のつけている香水の匂いが妙に濃く感じられた。
「俺は生まれつき男にしか興味ないんだ。自覚したのは小4の時。プールで友達の裸見て勃った」
「たっ、」
生々しい話に言葉を失う。
「はは、純情だなぁ。耳赤いよ、鷹司」
「るっさい」
急にそんな話をし始めた山津が悪いんじゃないか。そう、ジト目で彼を見つめると、ふっと眉を和らげ、山津は静かに言う。
「やっぱり、そういうんじゃないんだよな鷹司は。俺のエピソードはゲイの中じゃあるあるだよ」
「そ、そうなの……?」
でも、それじゃあまるで。
「相手は誰でも良いみたいじゃん」
言ってから失言にも程があると青ざめて、恐る恐る見上げた山津の、その奥にあるひんやりとした昏さに息を呑む。
「ごめん、あの、僕」
「いや」
囀るのは
「合ってるよ」
蝉の音。
「そりゃあタイプとかはあるけどさ。極論、性欲の対象がどう向くかだろ? だったら俺は鷹司の言葉を否定出来ない」
淡々と話すその口調が余りにも落ち着き払っていたから。得体の知れない感覚に身震いする。
「なあ、鷹司。お前は多分、こっち側じゃない。今の話聞いて気持ち悪いって思っただろ?」
「……」
「良いんだよ、それで」
そうやって傷ついてきたのか。今までもそうやって一人で抱え込んできたのか。
疑問に思うまでもなく、そうだったはずだ。
仕方なさそうに笑う山津は、いろんな感傷を呑み込んで、ずっと一人で立ってきたんだろう。
仕方ない、仕方ないって。
「山津」
「ん……っ?」
グイッと。
相手の頬っぺたを引っ張る。
「馬鹿にすんな。僕にだってプライドはある」
誰が背負わせてやるものか。この気持ちの痛みも辛さも悲しみも、全部全部僕のものだ。
「大体、気持ち悪いだなんてひと言も言ってないでしょ。ただ知らない世界があるんだなって驚いただけ」
だから勝手に勘違いするなと睨みつければ、彼はしばらく狐に摘まれたような顔をして、それからくしゃっと破顔した。
「カッコいいなぁ鷹司。ホント、俺のタイプ」
「そうだよ、僕ってかっこ……は?」
何だ、何を言われた。
聞き返そうとした言葉はまるでさっきのセリフがなかったかのように立ち上がり、「それじゃあ、また放課後な。教室迎えに行くから」と一方的に言うだけ言って階段を降りて行った山津の態度により、ものの見事に流されてしまった。
取り残された階段は一気に静けさが広がって。
ポロッと。片手に握りしめていたペットボトルが床を転がる。
六限は急遽会議が入ったとかで全クラス自習になった。生徒達が各々勉強に集中する中、僕は前の席の隆介に請われるがまま机をくっつけ、数Ⅲの教科書を開く。
「ねー唯ちゃん、何でここのαがlog2分の1になるわけ?」
「法線の方程式はさっき求めたよね。そこから接線の方程式と組み合わせてみて」
「んーと、んー……こうか」
赤ペンをシャッとノートに滑らせながら、僕は隆介の計算を手伝っていく。
「お、出来た」
「うん」
少しだけ横脇にグラフを書いて、それからトンとペンの先でつっつく。
「ここの接点で交わってるのは分かるでしょ。それからbを仮置きして、両辺の底が2とする対数を考えると」
「対数はイコールeじゃんね」
「せーかい。花丸百点だね、バナナミルク奢ってあげる」
「いえーい」
「すまない」
和やかな会話の最中、机の上に影が落ちる。見上げれば、ノートを片手に僕を見つめる晴臣の姿。
「唯人、古典なんだが」
「良いよ、座る?」
「いや、ひと段落だけ解釈を聞きたいんだ」
一瞬、チラッと後ろを振り返った彼の視線の先には、可愛らしい三つ編みをした女生徒の恥ずかしそうな顔が。吉田さんだ。彼女が待ってるならそりゃ長居はしないかと思いつつ、わざわざB組から彼氏と自習しに来るなんてご苦労なことだと、嫉妬に塗れた醜い感情がふっと湧き上がる。だっていつもなら、晴臣は僕と二人で勉強していただろうから。そんなこと考えても仕方ないのに。
「はいはーい、唯ちゃんは今俺で予約いっぱいなんで他当たって下さーい!」
「ちょっと隆介」
「だって嫌っしょ。リア充に目の前彷徨かれんの。俺がこれで受験落ちたら絶対に晴臣のせいだかんな!」
フシャーッと猫が威嚇でもしているかのような様子に苦笑が浮かぶ。僕も晴臣もこうなった隆介がテコでも自分の意思は曲げないことを知っているので、お互い目配せして肩をすくめた。
「ほらとっとと行けよ! 今! NOW! Let's go!」
「……らしいから、ごめんね」
「ああ、邪魔したな」
残念そうに、けれどあっさり引いていく彼の姿にズキンと胸が痛む。いつもはもっと粘るのに。彼女が見てるから? そりゃそうだよ。
誰に語るでもない自問自答が頭を巡って、離れていく晴臣の背中に「待ってよ」と呼び止めたくなる。けれど、そんなことをして良いわけがなくて。
俯きかけた瞬間、晴臣は突如立ち止まってぐるりとこちらを振り返った。
目線は僕──じゃなくて真横の隆介に。
「言っておくが」
「んだよリア充」
「次は譲らないからな。唯人以外に頭の良いやつを探しとけよ」
最後に僕を流し見るようにして晴臣は彼女の方へ去って行った。
それが十中八九親友としての言葉だと知っていても、それでもまだ喜んで浮き足立ってしまう感情が抑えきれない。
「オッエ゛ーー! だーれが唯ちゃん譲るかっての!」
「こら隆介、お行儀悪いよ」
舌を出して意地の悪い顔を晴臣の背中に向けた彼に、僕は軽くチョップして静止する。
「てか何、ムキになりすぎ今日」
晴臣と喧嘩でもしたんだろうか。少し心配になりながら隆介を見れば、彼は至極ケロッとした顔で言う。
「いんや? 別に?」
「じゃあなんなのさ、いっつもはそんな突っかからないでしょーが。まさか本当に彼女出来たの羨ましがってるわけでもあるまいし」
「んー……ムカついたから? なんかこう、イラっときた」
「言ってること同じだよ二回とも」
しかも大分理不尽な理由だ。
隆介はそれ以外に言葉が見つからないのか、ただひたすらに首を傾げてうんうん唸っている。
結局、あまり勉強は捗らなかった。主に隆介が悩んでいたせいで。
打ち寄せる波のように、教室のあちこちから不安そうな声が上がる。
「特に女子は気をつけるように。それじゃあ気をつけて帰れ。くれぐれも遅くなるんじゃないぞー」
終わりのHRが長引いたのは、近くに出た多数の不審者情報のせいだった。なんでも、トレンチコートの中が全裸で、手当たり次第女の子に声をかけては自身の裸を見せびらかす輩が複数人いるらしい。
「変態って春先に出るもんじゃねーの?」
「夏の暑さにトチ狂った説」
「いつの世も変態は消えないな。忌々しい」
「お前はどちらの世の方ですか?」
「てか俺、妹送ってやんねーと」
「え……隆介の妹ちゃんって豊神村の? 小学校遠くなかった?」
「ゆーて山一つ越えるだけ。妹のためならへっちゃらっしょ」
「じゃあ唯人君は? 晴臣が送るん?」
隆介がいつも連んでいるグループの会話に晴臣と二人でさりげなく混ざっていたら、話が思わぬ舵の取られ方をして、「え」と声を漏らす。
「え、って。唯人君一人で帰る気だったのか?」
「ねえ高橋、僕男なんだけど」
「いやいや、知ってるし。でもそういう次元超越してっしょ唯人君」
「それな」
「三津原まで何言ってんの」
「まあまあ。でもさぁ、唯ちゃんぶっちゃけどの女子よりも心配だよ俺」
小学生の妹を迎えに行くため早めに帰宅の準備を済ませた隆介が、僕を見て、それから晴臣に視線を移す。
「ちゃんと送ってけよな!」
「言われなくてもそのつもりだが?」
「いや待ってよ。晴臣は吉田さんを送るんだから無理でしょ」
「は?」
「はって……こっちの台詞なんだけど。後ろの扉見てよ。居るじゃん」
完全に晴臣を待っている様子の吉田さん。健気にスクール鞄を抱きかかえて、僕らが話し込んでいるのを邪魔せずずっとそこで待っていたのだ。
良い子で、本当、晴臣にお似合いな可愛い女の子。
……目眩がしたのを誤魔化すように机に突っ伏して、それから「途中までは高橋と三津原が居るから」と言って、キツく目を閉じる。
「はあ〜、行ってこいよ彼女持ち。唯人君は俺達が送るからさ」
「うん、吉田さんさっきから滅茶苦茶視線合うしそろそろ鬱陶し……そろそろ可哀想だしね」
「ねえ三津原全然誤魔化せてないけど。あと送らなくて良いってば。僕も男だし」
思わずツッコミを入れたが、一向に喋り出さない晴臣に少し怪訝に思って頭を上げる。バチっとかち合った視線。
わーお、険しい顔。
「三人で帰るぞ、唯人」
「え、彼女と? 勘弁してくんない?」
本音が溢れた。それをマズいと思うよりも早く、ダンッ! とテーブルに強く手を叩きつけるような音が響いて、一瞬、教室中が静まる。
元凶は四方から集まった視線もガン無視して、いっそ凄みを感じさせるほどの笑顔で晴臣に告げた。
「どっちかにしてよ。ズルいよそういうとこ」
「ど、どうしたの隆介、落ち着いて」
「唯ちゃんは黙ってて」
「おい、唯人に」
「うるっさいなあ。いーから彼女送ってけよ」
今日は本当に変だ、隆介。
僕は今にも晴臣に掴み掛かりそうな隆介を抑えて、そんな態度に戸惑った様子の晴臣にも視線をやる。
「ねえ良いから。早く吉田さんのところ行ってあげて」
「お、おー……なんか分かんねーけど唯人君はマジで俺と三津原が責任もって送るからさ」
「そそ、俺が責任持って高橋の手綱引くし」
「俺は暴れ馬か」
「ショーグン三津原、逝きます」
「逝くな逝くな。戻って来い」
「ヒヒィーン……」
「しわくちゃピカチュウみたいだぞお前」
「高橋は髪の毛どうしたん? マックの赤ピエロみたいにボンバーしてっけど」
「天然じゃボケェ。生まれつきこの髪見て育っとんじゃワレェ」
「……ぷっ、ふふ、ね、も、最っ高」
気まずい空気を吹き飛ばすコミカルな二人の会話に腹を抱えて笑い声を上げると、冷静になったらしい隆介が「はあー〜」と息を吐く。
「正直お前ら頼りないけど信じるしかねーもんな」
「おいコラ隆介貴様しばく」
「縛るよ隆介ギンッギンに」
「んん、言葉の綾だって。つか俺、本当に良い加減出ないとだし」
腕時計を見て焦った顔をする彼に僕らはバイバイと手を振るが、一人だけ、黙りを決めていた晴臣がすれ違いざま隆介に呟いた言葉でまた空気が凍る。
「お前に何の関係があるんだ」
「あ゛?」
シャツの胸ぐらを反射的に掴んで、隆介から聞いたこともないほど低い声が飛び出る。それに晴臣は怯んだ気配もなく飄々とした態度で、いや、ちょっぴり苛立ちも含んでいるように見えた。そりゃあこんだけ執拗に当たられたらそうもなる。
にしてもこれは行き過ぎだけど。
「二人とも一旦離れて」
「お二人さんドウドウ、深呼吸しろって。じゃなきゃこの高橋、チビっちゃうぞ♡」
「ほーら三津原おじちゃんが金平糖をあげますよー」
「え俺も欲しいんすけど」
「だが高橋貴様はダメだ」
「なぬ! お前さん、この高橋が斬り捨ててくれよう!」
三人がかりで晴臣と隆介を引き離し、その間に割り入る形で会話を繰り広げる。
ああほら、こんな事ばっかしてるから吉田さんまで不安そうな顔だ。ちらっと壁の時計を気にしていることからもあまり遅くなるのは嫌なんだろう。ただでさえ不審者が出て女の子は危ないのに。
「ねえ晴臣、僕は本当に大丈夫だから。君は良いかげん大切な人に目を向けるべきじゃないかな」
誰を指してるかなんて言うまでもない。
「だが、俺にとっては唯人も」
「はいはい、分かってるって。ありがとね」
適当に流すと不服そうな表情をされるが、気付いてなんかやらない。むしろ見ないフリをしないと自分が保たないんだよ。そんなこと、晴臣は気付かないで良いけど。
「隆介も妹さんが待ってるんでしょ」
「……そーデス」
これで一件落着。
そう思われた時、教室の前からのっそりと現れた人影に騒がしくなる室内。何だ何だと視線の先を辿れば、短い赤茶色の髪が蛍光灯の光に反射し、ワイルドな美貌と逞しい体躯が一際映えて見える男の姿が。
「よお、隆介」
「えー山津じゃん。どしたん」
「鷹司に会いに来た」
「ん、唯ちゃん? いつの間に仲良くなったの」
「ああ……ほら、最近ちょっと、ね」
不思議そうな隆介にどう言ったものか迷って、言葉を濁すと意図を汲み取ったのだろう、山津が「花火大会きっかけ。俺本当に助かったからさ」とさらり嘘をつく。
「ほーん。じゃあ今日は唯ちゃんに山津がついてるってこと?」
「なんだ、不審者の話か? それなら用事のついでにちゃんと家まで送り届ける予定だから安心してくれよ」
だから何で当然のように僕が送られることになってんだ。あとさりげに僕の荷物持たなくて良いから山津。男前か。
そう、口に出す寸前でぱしっと横から手を掴まれる。
「どしたの、晴臣?」
「……いや」
ああこれ拗ねてる顔だ。いつもなら励ますために色々と彼に付き合うけれど、正直今はもう直視するだけで辛いから。
「ごめんね」
何に対してか不明瞭な謝罪を口にして、僕は山津の背を追い教室を出た。追いかけてくる気配はない。
睫毛を伏せる。
手を握られていた。
ミーンと鳴く蝉の声が木漏れ日を透かして夜に沈みゆく夕暮れを漂う。じわりと滲んだ汗は緊張と少しばかりの照れ臭さから。
「……もうここで大丈夫」
家に続く、緑色の苔が生えた石段の前で。僕が告げた言葉に山津は「そっか」と笑い、意味もなく絡めていた手をそっと離す。一瞬、恋しげに彼の小指が僕の指先に絡んで、くすぐるように離れていった。
「ちょっと」
驚きに手を引っ込めて、非難の視線を送れば、彼は気にしたフリもなく手をひらりと振って破顔する。
「意識してくれた?」
「ない」
「おお、それでこそ唯人」
「……何で呼び捨てになってんの」
「君と距離を縮めたいから?」
「はあ」
慣れてるんじゃないの、山津。
帰り道で二人っきりになった途端自然と手を繋がれたのもそうだし、こうやって堂々とアピールしてくるところとか。
僕には到底できない。だからこそ彼が眩しく思えて、それに翻弄されている自分が悔しい、とも感じる。
「唯人は俺のことずっと山津のまま?」
揶揄うような口調で、けれど期待と不安を滲ませた眼差しに顔を覗き込まれて、僕はじりっと後退りする。
暖簾に腕押し状態の今は、吐き出す言葉にも迷ってしまう。唇を引き結び、意図せず沈黙を作った。
「んー……」
すると彼は考え事をするように頭を掻いて、周囲に視線を泳がせると、一瞬動きを止め、すぐさまこちらへ振り返る。ちょっと怖いくらいの真顔だ。次にググッと、ただでさえ近かった距離を彼は身を乗り出して埋めてきた。
相手の熱が間近に伝わりそうなほど密着して。逃げようにもいつの間にか背後の生垣に阻まれ二進も三進もいかず。今、僕の顔と同じだけ青いだろうルリマツリの花の匂いが夏の空気に溶け込む。
「じゃあさ、提案」
腹の底を撫でるような低くて心地よい声が。
「この先。卒業して、唯人が東京に行ったあと。そのあとでも今の好きな人が変わらないままだったら俺に連絡して」
「へ」
普通、逆じゃないの。
拍子抜けしたような、そんな心地で発した一音を鷲掴みにするみたく。
「──絶対俺に落とすから」
刹那の瞬間、耳をはむような近さで告げられた言葉に思わずドンっと相手の身体を押して距離を取る。
首から上が熱かった。それ以上に喉がきゅっと閉まって、声が出せない感覚。
何だこれ、息苦しい。
通学鞄を片手に握りしめて、僕の反応全てに愛おしいといった表情をする山津に、唇を震わす。結局、この感情を言葉に変える方法も分からないまま。
ただ逃げるようにその場を駆け出した僕を。
夏の暑さが追いかけた。
「……何か用でも?」
離れた木の影に呆然と立ち尽くす男に視線をやり、俺は肩を竦める。掛けてやった声は届いたのか、相手は暫くするとこちらに踏み出して、険しい顔のまま目の前までやってきた。
それから、あからさまに不機嫌な声で。
「別に」
とだけ告げて俺の横を通り抜けていった奴に、はは、と苦笑が込み上げるのも仕方がないことだろう。
「……不器用だなぁ」
そんなんだから俺に奪われちゃうんじゃないかなあ、と。
心中、まだまだ自覚すらないその男に、俺はとびっきり優しく語りかけた。
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