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 ショウの部屋は低層マンションの五階にある。駅前ロータリー側はビルが建っていて見渡せないが、布田方向を見れば、畑や雑木林を見ることができる。窓辺に立ち、穏やかな春の陽気の中、電車の音を遠くに聞きながら、何となく外の景色を眺めていた。するとベッドに投げ出していた携帯電話が鳴った。ユキナからだった。 「今、何してんの?」 「ああ、ぼうっと外見てた、どうした?」 「別に、用なんか無いけどさ、どうしてっかな、って思ってさ」 「何だ、お前、暇なのか?」 「いや、別に暇こいてる訳じゃねえけどさ、そっちこそ暇こいてんなら、話し相手になってやってもいいぜ」  ショウは苦笑したが、満更でもなかった。ショウの携帯電話が鳴ることは殆んど無い。メモリーに登録されているのは、盛岡の祖父と高校時代の友人数人、それとトオルと学生時代に仲の良かったケンジ、そしてユキナ、他には興信所くらいなものだ。 「今な、部屋の窓の外にハチが来てる」 「ん? ハチ?」 「ああ、あれは小さいがスズメバチだな、キイロスズメバチ」 「何だよ、それ、やけに詳しいじゃん」 「まあな、これでも東北の田舎育ちだ」  ショウが苦笑した。 「で、そのハチ、やべぇハチなのかよ」 「わからん、キイロスズメバチは都市型のハチでな、体は小さいがストレスに強く、人が大勢いる街に巣を作ることで、生き延びてきた種なんだ。民家の軒先に巣を作って、よくニュースで人がスズメバチに刺されたというのは、大抵このハチだ。山の中では生態系の頂点に立つのはオオスズメバチという種で、それはそれこそ本物のスズメほどの大きさもある。コイツに刺されたら、場所が悪ければ人も死ぬ、首から顔にかけて刺されたら、腫れで窒息することもある。アナフィラキシーショックという言葉を知ってるか?」 「なんだ、それ?」 「アレルギーの一種だが、極めて短時間で全身にアレルギー症状が出る。血圧の低下や意識障害が出ることもある。オオスズメバチというのは、ハチの中でも別格なんだ。しかし、コイツらは幸い街の中では生きて行けない。森の中にあっては、キイロスズメバチですらオオスズメバチの餌となってしまうのに、街に出た途端、オオスズメバチは環境に適応できなくて死んでしまう。しかし、キイロスズメバチは平気なんだ」 「へぇ、さすがショウ、何にでも詳しいな」 「そうでもないぞ、たまたま子供の頃に巣に悪戯してこのキイロスズメバチに背中を刺されたことがあってな、それで勉強した。相手を倒すには、まず相手のことをよく知らないといけないからな、それで、詳しく知ってる」 「そうなんだ、ショウにもハチに刺されたり、ドジを踏んだ子供の頃があったんだね、何かほっとした」 「おいおい、喜ぶなよ、アナフィラキシーショックというのはな、一度刺されたことがある奴が、二度目に刺された時に最も危険だと言われてるんだ」 「そうなのかよ、知らなかった」 「そう言うことだ、さっきから窓にコツコツ当たってはどっかに飛んで行くが、またぶつかってきたので、少し気になった」 「巣でもあんじゃねえのか?」 「時期的に巣作りはこれからだ、だから巣はまだ無い。この時期は巣作りできる場所を探しているだけだ、大丈夫、巣は作らせない」  ショウが窓を見つめた。ハチの姿は無かった。 「ところでショウ、今週の土曜日は空いているか?」 「ああ、今のところ予定は無い」 「だったらさ、アキバに観に来いよ、アタシが招待するからさ、切符切りのところで、ミウラユキナの彼氏だからって言ってくれれば、無料で中に入れるようにしとくから」  ショウが苦笑した。 「彼氏?」 「あ、いやいや、アタシの親友ってことで話しとくからさ!」 「わかった、で、何時だ?」 「おおっ、ショウ、本当に観に来てくれンのか!」  ユキナはそう叫ぶと、興奮気味に早口で場所と時間を告げた。 「お前の気が変わらんうちに電話切る!」  慌てて通話を切ってしまった。ショウは再び苦笑したが、嵐が過ぎ去ったかのような静けさに、寂しさを感じ始めている自分を認めた。昔からユキナには不思議な存在感があった。口が悪く、性格も粗雑だが、一緒にいて騒がしいと思ったことも、不快に感じたことも無い。ユキナには華がある。周囲の中で目立つ存在であるショウであっても、ユキナが輪に入って話し始めた途端に、その圧倒的な存在感で全て持って行かれる。ショウにとっては、それが何とも心地良く、卒業と同時に別れてしまったが、それ以後、ユキナのような存在感のある女性に出会ったことは無い。  ユキナはショウとの通話を切った後、手に持っていた携帯電話を握り締めたまま、うつ伏せでベッドに倒れ込んだ。鼓動が耳元で鳴っていた。喜びが次から次へと湧いてくるのを抑え切れず、一人で微笑んでは起き上がり、鏡を見ては照れ笑いした。ショウが自分を観に来てくれる。またいつものようにクールに断られると思っていた。ユキナは二階の自分の部屋を出て、一階の居間でテレビゲームをしていた弟のヒデユキに向かって蹴りを入れた。 「何だよ、姉キ! こっちは真剣にゲームしてんだよ、ほらミスったじゃん!」 「うるさいんだよ、お前は、いい歳してゲームなんかしてんじゃねぇよ、アタシは今、非常に時めいてんだよ! 我慢しろ」  ヒデユキは、チッと口を鳴らした。ユキナは全く意に介せず、鼻唄を歌いながら、家中で軽いステップを踏んだ。 「またかよ!」  嬉しさを体いっぱいに爆発させる。  ユキナはショウのことが好きだ。たぶん、初めて会った時からそうだった。一目惚れだった。ショウのどこが好きなのかと言われても、その全てとしか言いようが無い。初めて学校で会った時、すでに心と体が雷を受けたような衝撃を感じていた。こんな感覚は初めてだった。これまでずっと、男性に告白されることはあっても、まさか自分から気持ちを伝えたいと思うことがあるなんて、夢にも思わなかった。ユキナはショウのことを、正直なところよく知らない。ショウは付き合っている時でも、あまり自分のことを話さなかった。どんな街で生まれ、両親がどんな人で、どんな家庭で育ったのか知りたかった。けれども、ショウはいつも優しげな笑顔のまま見つめるだけで、何も話してくれなかった。ショウが裕福な家に育ったと知ったのも、随分経ってからだ。初めてショウの住むマンションを訪れた時、ユキナは軽い眩暈を感じたのを覚えている。調布駅前の地元ではよく知られた高級マンションではあったが、まさか学生が一人で暮らすようなマンションではないと思っていた。オートロックのドアが開いて、中に招き入れられた時、何だか落ち着かなくて、エレベーターを待つ時間が随分と長く感じられた。差し入れに買ってきた近所のスーパーマーケットで半額になった唐揚げや、枝豆をぶら下げた自分がとても小さく感じられて恥ずかしく、ユキナはそれを投げるようにしてショウに渡したのを思い出す。しかし、ショウはそれを美味しそうに食べ、二人でテレビを観ながら他愛もない話をし、自然な流れでユキナはショウに抱かれた。ショウの厚い胸板に頬を寄せ、鼓動を聞いているだけで幸せだった。雪国の男らしく色白で、口数は少ないが、言葉は知的で誠実だった。ユキナはショウに溺れた。この人と一緒になることができるなら、夢を諦めてもよいと初めて思った。しかし、そのことが逆にショウの負担になっていたことを、ユキナは後から知った。  あれから四年が経ち、だからこそ、ユキナは女優になるという自分の夢を諦めずにいられる。自分の人生は自分で切り開くべきだと教えてくれたのはショウだ。あの時、ショウが自分を振ってくれたからこそ、現在の自分が存在している。けれども、ユキナはショウのことを諦めたわけではない。四年間ずっと自分自身を見つめ直してきた。それでも気持ちは変わらなかった。例えショウが振り向いてくれなくてもいい。自分は欲張りな女なのだ。女優になるという夢を追いかけながらも、ショウのことを諦めない。愛してもらえなくてもいい。ただ一緒にいたいと今はそう思う。
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