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 雨の日は長く続かなかった。六月に入ってからも梅雨のような湿った日が少なく、降ってもすぐに止んで、雲の切れ間から陽が射した。その陽射しがあまりに強いので、黒く濡れていたアスファルトもすぐに乾き、やがて、辺りに蒸した空気が立ち込めた。ショウは窓を締め切り、エアコンをつけ、ベッドに寝転がっていた。新宿のショットバーで教えてもらった中国人クラブに、どうやって近づこうか考えていたが、方法が無かった。クラブについては一度、T社長に相談してみるつもりだ。ユキナとはしばらく会っていない。劇団の公演を七月に控え、毎晩稽古に忙しく、土曜日の午後も、秋葉原から、劇団が借りている新宿の稽古場まで直行している状態だった。ユキナは劇団の稽古がある時は、基本的に劇団の仲間たちと飲む。そうしないと、微妙な輪が乱れると言う。稽古での反省会を兼ねているらしいが、劇団の連中というのは余程、仲間同士で飲むことが好きらしい。以前、ショウもユキナに誘われたことがあるが、丁寧に断った。仲間だけの輪を乱したくはなかったし、そもそも大人数での酒の席が苦手だった。近頃、歌舞伎町の中国人クラブに近づくことができない自分に、無力さを感じることがある。東京に出てきて、すでに六年になるが、少しも前に進んでいない。両親の事件のことも、弟のことも、何一つわかっていなかった。新宿に目をつけたこと自体が間違いではなかったのか? 元々、興信所が匙を投げたものを、素人のショウが一人で探し出せるはずがないのではないか? 弟のリュウは東京にいないのかもしれない。そんなことをぼうっと考えながら、ベッドに横たわっていた。  何気なく、窓の外の雲の動きを見ていた時だった。コツッとスズメバチが窓ガラスに当たったので、はっとした。ベッドから身体を起こし、注意深くベランダを見渡して、スズメバチがいないことを確認した。窓を開けると、ムッとした熱風が流れ込み、湿った臭いが鼻の奥に触れた。スズメバチの巣ができた様子はない。けれどもこの近くを飛行しているのは間違いない。ショウは以前、神保町でユキナを待っている時に買った、スズメバチに関する本を思い出した。スズメバチが異常発生した年は刺傷事故が多くなり、結果、世間に知られることになる。スズメバチはあらゆる昆虫の生態系ピラミッドの頂点にいる。その中でもオオスズメバチが最大で最強である。キイロスズメバチの天敵であり、秋などの食料が不足する季節には狩って餌にすることもある。蜂同士と言えども、互いが敵同士であるという。ヒメスズメバチはアシナガバチを専門に狩り、チャイロスズメバチはヒメスズメバチの巣を乗っ取る。互いに縄張りを持ち、女王蜂を頭に、働き蜂の役割も決められている。相手を刺し殺すことまで含め、スズメバチの生態は、どこかヤクザ社会に似ていると思う。キイロスズメバチは、種の中で最も環境の変化に強く、元々温帯から亜寒帯に生息していた種であり、寒さには滅法強い。天敵を避け、生活の場を人の住む都市部に移したことで、勢力を爆発的に伸ばした。逆にオオスズメバチは都市部では生きられず、大型の昆虫や大木の樹液の多い山間に住み続けるしかなかった。キイロスズメバチは雑食で、何でも食べる。死んだミミズでさえ食べる。樹液が無ければ都市部の自動販売機のゴミ箱の空き缶のジュースを舐め、カラスのように人間のゴミも漁る。ショウは人の世も同じだと思えてならない。様々な時代や環境の変化について行ける者が生き残り、狭い中で縄張り争いをすれば、どちらかが淘汰され、またはどこか他の土地に追いやられる。その土地に適応できれば生き延び、適応できなければ死んで行く。その繰り返し。  再びスズメバチが窓ガラスにコツンとぶつかった。あるいはこの近くに巣ができているのかもしれない。ブンと短く太く重い羽音がしたかと思うと、スズメバチは窓枠に一度たかり、そのまま窓の上の壁の方に歩いて消えた。やはりキイロスズメバチに間違いない。ショウは再びベッドに横たわりながら、キイロスズメバチの消えた先を見つめていた。それと同時に、先日T社長から聞いた、歌舞伎町の中国人マフィアの話を思い出していた。T社長が口にした「阿修羅」という言葉が頭を過ぎる。中国東北部の貧しい農民が日本に密入国し、在日三世と繋がっている。その深い闇を表面的にでも知ったことで、歌舞伎町を、いや、中国人マフィアを見る目が変わった。ギラギラしたヤクザと違い、中国系マフィアの恐ろしい所以は、誰がマフィアで、何を考えているかが見た目ではわからないところだと言う。キイロスズメバチの姿と、中国系マフィアがリンクしたのは、ショウの勝手な想像だが、何か背筋に冷たいものが走るのを感じた。脳が何かを避けるようにしているためか、睡魔に襲われ、ショウはそのまま深い眠りに落ちた。
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