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1.一年の冬
冬休み明けの気分は最悪だった。実家に戻らなかったぶんマシな気もするけど、そこそこに最悪だった。
長い休みが終わった後の学校はうるさい。
「おはよう」だの「去年振り」だの「眠いー」だの、誰かが教室に入ってくる度に同じような挨拶が行ったり来たりする。
しかもどっから誰が仕入れたのか「転入生が来るらしいよ」なんて噂まで投下された所為で、教室中がそわそわしていやがった。入学してそろそろ一年経つって時期だろうと、大半の奴らはそういう話が好きだ。
いつもだったら、オレもちょっとくらいネタにしてたと思う。けど今っつーか休みの間ずっと体調と気分がぐらぐらしてた所為で、乗れる気力が殆どない。
「じゃあ俺あえての男！」
やたら張り切った声が最前列でたむろってる奴らの中から上がった。聞く気もないのに「いや絶対女子」「留学生だったらどうする？」とか言うバカ騒ぎが耳に入って来る。どうも、転入生の性別にジュース一本を賭けているらしかった。心底どうでも良い。
そんなどうでも良い事であれだけ盛り上がれるんだから、あいつらは幸せだ。
「わかるぅー。私もね、毎日『会いたい』って言われてー」
今度は、ねとねとした声が後ろから聞こえた。
こっちはこっちで『休みの間は誰と何処でどう過ごした』って事をきゃっきゃと報告してる体でマウントを取り合ってるらしい。
苛々と歯を食い縛る力が強くなる。どこもかしこも雑音ばっか。あぁやってんなぁで済ませられてたあれとかこれとかが、今日はやたらと勘に触る。
「どしたん、昴ー？ 風邪治ってないの？」
聞き慣れた声の方に目をやると、田崎が手をひらひらさせながらこっちに向かって来ていた。周りの何人かが、視線だけをこっちに寄越す。
おはよーって笑う田崎の顔は、へにゃっ、と、カラッ、の中間でちょっとアホっぽい。でも、こいつは意外と空気が読める。他の奴には『近寄んな』って言ってるように見えるオレの顔がそうじゃなく見えるんだから。
四日前に田崎からもらった「新年初顔合わせしよー」ってメッセージへ「風邪っぽい」って返して断ってたのがあるにしても、人の事をよく見てる。
「ちゃんと病院行った？」
「そこまで酷くない」
「えー、大丈夫？」
犬みたいな顔のまま、田崎が不安そうにする。荒れていく一方だった気持ちが少しだけ軽くなった。けど、言うに言えない理由と、鈍いだるさの所為で、無愛想にしか答えてやれなかった。
仕方ないだろ。「実はここんとこ、急に寒気がしたり動悸がすると思ったら急に治るんだよなー。しかも何度も」なんて言ったら、余計に心配される。
最初の内は風邪かと思って、熱を計ってた。考えるのを止めたのは六回目の平熱を見た時。
体調管理はいつも以上に気を付けてた。調べてみても「コレだ」っていう症状が見つからない。完全にお手上げだった。
それだけでもストレス溜まるっていうのに、予測の出来ない不調は、体力以上にメンタルをごりごり削っていってたらしい。
教室に入って来た担任を見て自席に戻る田崎は「何かあったら言ってね！絶対だからね」と、何度も振り返りながら離れて行った。
前の奴らの背中で田崎が見えなくなったのと同時に、表情筋が力尽きた。始業式の後に授業がなかったらサボってる。
授業あったら何でサボんないのかっつったら、風邪か分かんねぇなら出た方が良いだろ。って思ってるから。
そういう真面目な、他人から見たら意外だわーって言われそうな理由で来てるのが半分。
もう半分は、両親絡みのクソな理由。あいつらとは去年の夏に顔を合わせたきりで、その後は一度も会ってない。
「ですからね、えーこちらに残って自分の時間を大切にできた方も、帰省されてね、ご家族や普段会えないお友達と会って周りの人達から元気をもらった方もね、居ると思います」
担任の話し声がうっすらと頭に届く。実家暮らしじゃない生徒が居る前提で話すのは、この地区らしい感覚だった。
うちの学校がある地区は学園都市だ。公立私立関係なく、有名進学校や部活の強豪校が多い。毎年全国から集まって来る生徒の中には、寮に入る奴が当たり前に居る。オレみたいに、学生向けの賃貸に住む奴もたまに居る。実家から来てる奴は来てる奴で、一時間以上かけて通学してるのがザラだった。
そんな所へ、こんな中途半端な時期に入って来る奴はかなり珍しい。クラスの奴らが騒ぎたくなる気持も分かる。
……わかんだけど、普通にしんどい。
体力も気力もじわじわ削られてってて、怠さに抵抗するので手一杯だった。ゆるーっと喋り続けてる担任の声は、右から左にどんどん流れてってる。気休めで良いから病院行ってから来れば良かった、って思うのは今更か。
とりあえず、体力温存しとかないと後がきつい。しれっと机に突っ伏したら、自分の重みが枕代わりの腕にずっしり乗った。
ヤバい。寝そう。倦怠感から逃げつつ寝落ちを回避しようにも、教室は温かいし、担任の喋り方は穏やか過ぎる。
どのくらいそうしてたのか、意識を保っておく為の考え事が散らばって、夢と現実の境目がかなり曖昧になった頃にようやく、
「という訳でね、えー、このクラスに新しい仲間が増えます。皆さん、宜しくお願いしますね」
と、どうにもふわふわとした締めの言葉が聞こえた。
やっとか！ っていう期待と、クラス全員始業式に遅刻させる気か？ っていう不安で教室が騒つく。まだ頭が覚め切らないまま、オレは体を起こした。
「入ってください」
廊下へ呼びかける声に続いて、静かに扉が開いた。流れ込んで来た冬の空気にひっ、と前列の生徒が息を飲む。中は暖房が効いていても、廊下にまでそんな設備はない。先に入れてやりゃ良かったのに。なんて、面識のない転入生をぼんやり不憫に思った。
その、一瞬後。
ドクンッ。と鼓動が跳ね上がり、全身が総毛立った。
なんだ！？ と思うのと同時に、あり得ないくらい強烈な動悸と寒気が駆け抜ける。ドクドクと煩く心臓は動いているくせに、震え出した手を掴んだら、血が通っていないみたいに冷たくなっていた。
どう考えても風邪じゃない。
何か別の原因で、とんでもない事になってる。
そう理屈では分かっていても、急激な変化に頭も感情も追いつけない。耳までおかしくなったのか「はい。じゃあ、自己紹介をしてください」と言う担任の声が、厚い膜を通したみたいに聞こえる。
その濁流の中で、はっきりとした音が鼓膜を打った。
「宮代 遙です。宜しくお願いします。」
声が耳に入るやいなや、内臓だか魂だか分からないものが内側から引き摺り出されそうになる。腹の中で、ぐにゃりと恐怖が蠢いた。
内容物ごと這い上がって来るのを堪えてはいるけれど、感情ごと今すぐ全部ぶち撒けたい。思い切り、それこそ子供みたいに泣き喚いたら楽になるかも。馬鹿げた誘惑が、視界を滲ませる。
──弱音なんて、許してもらえた事なかったけど。
そう過った時に、何かが引っかかった。同じように泣き喚きそうになった事が、あった気がする。それどころか、この不快感に何度も襲われた気がする。回らない頭をどうにか働かせて、記憶を辿った。
動悸がする
不安に捕まる
悪寒が湧き上がる
恐怖を押し付けられる
震えが止まらない
ちがう いやだ
足が動かない
息をするたび泣きそうになる
口を開くと吐いてしまうから、目線で訴える
「 」
心底がっかりした顔が返ってくる
いつも そう
……そうだ。知ってる。
オレは、この感覚を知っている。
そこまで思い至った時、先程よりも少しだけはっきりとした担任の声が届いた。
「席はですね、えー、あの窓際の空いている所ですね」
それ、斜め後じゃないか？ 反射的に顔を上げると、視線を寄越した転入生と目が合った。
『こいつだ』って、一瞬で理解した。
前列の生徒も転校生の横に立つ担任もその後ろの黒板も、教室中のもの全部を紗幕の裏に追いやって、一人だけそこに立ってるみたいに意識を掻っ攫ったそいつは、今まで遭って来たどの〈アレ〉よりも異様で。
ただの黒い眼と髪が、この世の果てでも引っ張って来た色に見える程、鮮烈だった。
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