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3.早く帰りたい
何で、今更。
思い出したくもない過去が高速で過ぎて行った頭に、問いとも疑念ともつかない感情が残る。
あの感覚って、気の所為だったんじゃねえの……? 最近は全然なかったじゃん。つーか、あんな痛い妄想みたいなのある訳ない。風邪とかストレスとか気の所為とかなんとなく嫌いだったとか、全部そういうのだっただろ。そうだって思って、無視して来ただろ。
軋みを上げる扉の内側から、忘れていたものが飛び出して来そうだった。それを必死に押し戻さなきゃいけない理由に目を逸らしたまま、鼓動だけが早くなる。
ぐわん。と空気が歪み、圧迫感が増した。沈みかけていた意識が強引に引っ張り上げられると、転入生が指定された席に向かおうと歩き出したところだった。
やばい……!
一瞬で正気に戻って顔を下げる。直後に、露骨だったんじゃないかと不安になった。さっきよりは、頭も身体も自由が効く。でも、今何かあったら、絶対に逃げ切れる状態じゃない。
一歩一歩近づいて来る時間が嫌に長く感じた。背中を伝う汗と忙しなく震える足先を、爪が食い込みそうなくらいに掌を握り締めて誤魔化し、どうにか平静を装う。
あと三歩、
二歩、
一歩、
ゼロ。
頭の中で唱えた数字がなくなるのと同時に、冷えた空気が横を過ぎる。さっきまで感じていた寒気と動機と恐怖が、ぷつりと消えた。
不意に手放された緊張感が、斜め後ろに向かって体を弾く。
「っ!」
ぶれた景色が後方の席を捉え切る前に、急ブレーキがかかった。
気付かれんだろバカか!?
自分を叱り飛ばして、背もたれを掴む手に力を込める。尚も向かいたがる意識ごと、無理矢理に体を前へ戻して行った。たどたどしい深呼吸を繰り返しながら、注意を他のものへ逸す。
消されていく黒板の名前。暖房の熱と稼働音。廊下から話し声と足音が聞こえ始めたのは、どこかのクラスが移動を始めたからか。
目と耳と体温に異常がない事を確かめて、胸を撫で下ろした。体も頭も元に戻ったらしい。いや、それにしたってだ。
何だったんだよ、今の。
同じ教室に居るだけで気ぃ狂いそうになる奴が、すれ違った途端に無害になるなんて事起こるわけない。……つーか、あの馬鹿みたいな緊張自体が間違ってる。物凄く、それこそ、生理的なレベルで駄目な奴だったのかも知れない。
多分さっきのは、死ぬ程嫌いな相手だったから誤作動っつーか、溜まったストレスと疲れの所為で嫌悪感的なのが過剰に出ただけ。
だから、大した事じゃない。
ホームルームが終わった合図と同時に席を離れながら胸の中で頷く。やたらと酷い状態になったのも、昔の経験と被って上乗せされただけだろう。
今日はさっさと寝よう。それでなんとかなる。
始業式の為に体育館に向かう途中、駆け足で追い付いた田崎に「顔色ヤバくない?」って言われたけど、たぶん寒さの所為だ。
大丈夫大丈夫と脳内で捲し立てながら過ごした一日は結局、始業式どころか授業すらも半分しか頭に入ってこなかった。
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