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50.知らなかった事
お先に失礼しまーす。と店内に投げかけてから外に出る。
着替える前に確認した端末からもう一回アプリを開く。遙から帰宅を知らせる連絡はまだ来ていなかった。
正直、昨日のあれの所為でまともな顔して会える気がしねぇ。けど、遙からすりゃそんなの知ったこっちゃないし、オレとしても、会って、ああやっぱ気の所為じゃんって感じになるならなりたい。
一先ず『今終わった』ってメッセージを送って、返事を待ちながら自転車を漕ぎ出す。まぁ、疲れて寝てるだけかも知れないし。でも、そういうとこ律儀なんだよな。『すまない。今日はもう休むから明日に』くらいは、凄え疲れてても送って来そうだけど。
その不安は、帰宅するまで返信がなかった事で益々強くなった。手は荷物を片付ける為に動いてるけど、頭には全然違う事がぐるぐると回る。
……今行くのは過保護っつーか、凄ぇ意識してるみたいになんねぇ? 逆にそっちの方が意識し過ぎ? いやでも、こんだけ面倒見てんだし、責任とかそういうのあんじゃねぇの? ……うん、ある。あるやつだろ。たぶん。
誰に言うでもない理屈に頷くと、体は勝手に遙の部屋へ向かっていた。
そっと手をかけた隣室のドアノブは途中で支えず、すんなりと扉が開いた。良かった。帰っては来れてるな。
「おーい、生きてるかー」
声をかけながら覗き込むと、部屋の中は真っ暗だった。やっぱ寝てる? 一応ちらっと様子見るくらいなら、良いよな。
廊下の明かり付ける為に、玄関に足を踏み入れる。何かが靴に当たった。灯ったばかりの照明が、乱雑に転がる遙の靴を照らす。適当に脱いだというより、上から落としたみたいな散らばり方だった。
──何か、おかしい。
気恥ずかしさと気不味さが飛んだ。躊躇いなく、室内へ上がる。
もし倒れてたらどうしよう。救急車……は意味あんのか? でも呼ばないより良いはず。最悪の事態を想定して端末を握り、暗い居間に続く扉を開けた。
廊下からの明かりがさっと一筋差し込む。定位置って言って良いローテーブルの前にも、くっきりと照らされた床にも、ぼんやりと輪郭が浮かぶベッドの上にも、遙の姿はなかった。
「遙……?」
静まり返った室内には人の気配がまるでない。通い慣れたはずの部屋が急に無機質に感じて、冷や水のような違和感をぶっかけられる。
がたり。と、背後で物音がした。
驚いて振り返ると、風呂場に続く扉からふらりと前のめりに出て来る姿が見えた。ずぶ濡れになった白い服が見えた気がしたけれど、瞬き一つの間にごく普通の服装に変わる。一緒に出かけた時の服を身に付けた人が、陽炎みたいに首を巡らせた。
なんだ帰ってたのか。びっくりさせんなよ。なんて軽い言葉は、精気の感じられない目を見た途端に引っこんだ。
「昴……。」
「おい!?」
こっちに向かって来る足取りがあまりに頼りなくて、思わず駆け寄り手を差し伸べる。倒れ込むようにしてオレの手首を掴んだ遙の指は、氷でも掴んでたんじゃないかってくらいに冷たかった。項垂れた前髪から掌へ落ちた雫が、さっき見た幻に現実味を持たせる。
「どうした!? 大丈夫か?」
触れている所からは、何の違和感も伝わって来てない。中でヤバい事が起こってないからか? 必死で抑えてるだけ?
表情が見えないもどかしさに耐えかねて覗き込もうとすると、遙が声を震わせた。
「……すまない。」
「え、何?」
「ずっと、お前を騙していた。」
冷え切った指が耐えるように手首を握る。それでも堪え切れない余波が薄い肩を揺さぶった。
「本当は、もっと前から気が付いていた。けれど認めてしまったら、存在する意義がなくなってしまう。僅かな救いも与えられず、ただ、己の破滅に周りを巻き込むだけの者に……」
「おい、何の話だよ」
「でも。でもそれだけは、嫌で。こんな事をしてまで長らえて。けれど、それも、もう……っ。」
「だから、どうしたんだって!」
声を荒げると、弾かれたように遙が顔を上げた。その、見た事のないくらいにはっきりした表情が問い詰める事を忘れさせる。
悔しさと不甲斐なさに眉根を寄せ、認めたくないものを飲み込もうする唇が戦慄いていた。泣き叫ぶのを堪えているように喉がひくりと強ばり、突きつけられた現実を受け止めてしまった眼が濡れて揺らいでいる。
「俺には、あらゆる人間を救える程の力などない。はじめから。」
「…………は?」
低い、文句を付けるような音が口から漏れた。
そんなの、とっくに知っていた。遙の事を信じているといないとかの次元じゃない。どう考えたって無理だからだ。
遙が使命だって言ってる事は『悪い奴を倒してはい終わり』じゃ済まない。
世界ってやつは国同士の歴史やら損得やら威厳やらが、ごたごたに混ざって動いている。平和も平等も、一歩前進するだけで途方もない時間と労力がかかるって事くらい、授業受けてニュース見てれば察せる。たった一人でどうにかしようなんて、それこそ夢物語でしかない。
遙を作った奴等が「これくらいあれば」って蓄えさせてた力じゃ全然足りてなかった事だって、魔法なんて知らないし信じてないオレでも想像が付いてた。暴走を止める為に、予想外の力が使われたなら余計にだ。
「せめてここまでは、と決めた水準にすら届かない。疲弊していく人々を、ただ見続ける事しか出来なかった。幾つもの命が、目の前で絶えて行った。」
遙が達観と寂しさが混ざったような眼をするのは、長い時間をかけて、目的を果たせない悔しさと折り合いを付けたからだと思っていた。
オレの問題を解決してくれたのも、これからの為にって学校に通ってみてるのも、小さな人助けを重ねて行って「やれるだけの事はやった」って言えるようにしてるんだろうって。そんな遙の、サポートくらいはしてやれてるつもりだった。
「それだけではない。希望を与え続けていられれば好機があったかも知れないものを、成果を出せない焦りが故に、信じて待っていて欲しいと訴えかけられなかった。……結果、危機を脱せたはずの者達にすら、衰退への道を選ばせてしまった。」
じゃあ、これってなんだよ。
「足りないんだ……! どう抗っても。どう、償っても。」
「……お前の所為だけじゃないだろ」
感情が追いつかない声色はきっと冷たく聞こえた。それなのに、手を掴む人は傷付いたと抗議をしない。頭上から落とされた月並みな慰めを払うように、俯いたままの黒髪が揺れた。
「原因がどうあれ駄目なんだ。救えなければ。」
「何で」
「そう作られたから。」
何度も聞かされた決まり文句が持つ意味を、この時になって知った。無責任としか言いようがない理屈を付けた奴等は、とっくの昔に居なくなってる。殴り飛ばす相手を見失った衝動が拳の骨を浮き立たせた。
「助けを求めている者が居る限り救い、人類の平和への架け橋を作る。それが、この身に与えられた価値であり、生涯を掛けて成すべき事だ。だが、もう……っ」
ぷつりと糸が切れたように遙が足元から頽れる。掴まれたままだった手に一瞬だけかかった重さは、羽が滑り落ちる程度の余韻だけを残して離れて行った。
「すまない……! 皆の願いを浪費してしまって。……すまない、費やしてくれた時間に、報いる事が出来なくて。すまない……すまないっ……」
力なく座り込んだその体を抱き締めるのに、少しも躊躇いはなかった。
大差がないと思っていたのに簡単に腕が回ってしまう線の細さも、抱えた頭の小ささも。何もかもが頼りなくて。どうしようもないくらい腹立たしくて。お前を作った奴等は優しくなんてないと叫びそうだった。
私怨の為に利用した糞野郎だけじゃない。平和の為の道具にしやがった奴等も、オレからしたら全員クズだ。
自分達の願望を遙に全部背負わせて、その上、良かれと思ったんだか知らないけど感情みたいなものまで作りやがって。絵空事の責任をたった一人に押し付けておいて、良い事した気になって死んでったなら反吐が出る。
何も知らなかったくせに「自分が何やってるのか自覚しろ」って言った馬鹿も。
耳元でひゅっと、鋭く息を吸い込む音が聞こえた。じわりと滲み出て来たものへの対処法を、オレは一つしか知らない。
「うっ……ァ……あっ……」
「もういい。もういいから」
弱く押し返そうとする遙の手を握り、一層強く抱き締める。かなり消耗していたのか、もう一度抵抗する事はないまま、だらりと体が預けられた。
耳元で繰り返される小さな声は、ここ数日悩み続けていた音じゃなくなっている代わりに、痛ましくて、孤独だった。
誰だか知らない奴の願望と悲鳴が、腕の中の体を軋ませる。こんな事しか出来ない自分と、こんな風にした奴等とを呪わずにはいられなかった。
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