今後のご活躍を

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「千田さんがいなくなったらどうすればいいか、最悪メールしちゃうかもしれません」 「全然OKですよ、いつでも」千田はいつもの笑顔で対応している。  彼の周りには自然と人が集まってくる。そんな男が今日退職するというのだ、ひっきりなしに誰かがやってきては立ち話をしていく。  その脇で広石は、顔に出さないように気を配りつつ、憮然としていた。  9月最後の出勤日であるこの日、退職するのは千田だけではなかった、広石もである。しかし彼の元にはいっこうに同僚が現れはしない。人望の差、一言で言えば、そういうことになるだろう。  数日前、盛大に行われた歓送迎会でも、湿っぽい別れのコメントは千田に集中し、広石に対してはむしろ清々しさを感じさせる挨拶だけ、普段の評価と別れの挨拶の温度感には、どうやら負の相関があるらしい。  しかし広石にはどうでもよかった。辞めたらこいつらとは2度と顔を合わすことなどない、そう思うと実に気分がいい。  広石がこの会社に入ったのは、15年も前になる。  当時は就職氷河期、ほんの少し前の世代と違い、まともな就職先がない。今いるこの超大手メーカーですら、新卒採用ゼロという時代だった。  では、なぜ広石は入れたのか。  当時の広告部長が、制作スタッフを大量にフリーランスとして雇用したからだ、社員ではなく業務委託、いわゆる偽装請負。当時は大企業でもそんなグレーゾーンに手を出していた。  非正規の時代を先取りしたようなこのスキームは、数年のうちに社内で問題視され、あるものは契約社員に、あるものは契約終了という名の解雇を経て徐々に整理されていった。広石は数少ない生き残りだ。  しかし所詮出自は非正規、正規社員にはある手厚い研修や福利厚生の類はなく、同期と呼べるような同僚もいない、同じ仕事でも待遇もキャリアパスも違う正規社員に対して広石が抱いていたのは、鬱屈した苛立ちだけだ。  感情というものはやっかいだ。  一度でも誰かをやりこめてしまうと、悪い評判が広まる、悪い評判が広まると、理不尽な業務を押しつけられる、大きな会社というものは社内評価が何より重要なのだ。  いよいよリセットボタンを押す時だ。  40を前にして役職のひとつもない人間に転職市場は冷たかったが、大企業勤務という唯一の強みを活かして小さいメーカーの専門職を見つけることができた。  しかしいよいよ退職、というその日が、まさかこの男と被るとは。  千田は10歳以上年下で、他社から鳴り物入りで転職してきたと思えば次は業界No,1の某社に転職するという、波を乗りこなす人間と、飲まれた人間、そんな自虐的な言葉が思い浮かぶ。 「短い間でしたけどいろいろお世話になりました」  千田は如才ない笑顔を浮かべ、広石にも挨拶にやってきた。ほぼ1日中席に座ることなく挨拶に動き回っていた千田とは対照的に、広石はまったく自席から動いていない。 「ああ、わざわざどうも」 「次はもう決まってるんですか?」という問いかけに、ちょっと休もうかと思って、と適当にごまかす。わざわざ物笑いの種にするつもりか、広石の頭の中には、そんなひねくれた考えが常に鎮座している。  「じゃあ行きます、最後の日までお邪魔しちゃってすいませんでした。どうかお元気で」千田は両手で握手を求め、広石は苦笑いを浮かべて仕方なく握手を返す。去り際、千田が声をかけてきた。 「メールアドレスが使えるのも17時までだそうですから、連絡される場合はお気をつけください、では!」  誰がメールなんか書くかよ、心の中でそう毒づいたものの、そうだ、17時ちょうどに、悪口だらけのメールを全員に投げつけて終わりにしよう、と思いつき、広石は文章を考えはじめた。  しかし書き始めたメールは、意外なほど率直なものになっていった。  同僚に対してたびたび不遜な態度をとってしまったことを素直に詫びつつ、でも自虐に逃げることなく、周りの人たちの優秀さに支えられたと感謝を述べるような最後の挨拶。  なんだこれは、と狼狽しながらも、最後の最後にこんな感情になった自分を誇らしくさえ感じていることに、誰あろう自分が一番驚いていた。  16時59分、広石はメールを送信し席を立つ。声を出さず軽く会釈をするだけの挨拶だったが、向かいの席の女性社員が、広石さん、と声をかけてきた。 「今までありがとうございました。これ、お礼です」そう言うと手にした包みを広石に手渡す、いや、お礼なんてそんな、と返すと、2~3人の社員が立ち上がり、別れの言葉を口にした。次もがんばってください、そんな挨拶を受けながら、最後はまばらな拍手で見送られ、広石は頭を下げて逃げるようにフロアを出た。  みんなはメールを読んだのだろうか、それともまだ読む前だっただろうか、そんなことを想いながら広石は外に出ると、振り向いてほんの少しだけ会釈をした。
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