ドアの向こう側

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「じゃ、行ってきまーす」 「いってらっしゃい」  声を後ろにドアを開け、足を踏み出す。ぐにゃりと一瞬何かが歪むような、軽い目眩にも似た感覚があって、次の瞬間俺はもうライブ会場の前に来ていた。 「お、冷麺さん」  ハンドルを呼ばれて振り返ると、オタク仲間の電気牛さんが手を振っている。 「や、どうも」  壁の公衆ドアをしっかり閉めながら手を振り返す。 「まだ列できてないです?」 「もうちょっとですかね。今日は?ブリビですか?」 「もちろん。バイバイもあるしね、今日は」 「ああ、バイバイ。べりたんもうすぐ卒業ですね」 「ですです。卒業ライブ行けないかもなんで、行ける時に行っておこうと」  そう、今日は推しのアイドルユニット、ブリリアント・ビーが出演する4マンライブ。主催は別グループだが、最近ライブ自体なかなか来られずにいたので、今から気分が高揚している。 「しかし、あれですね、”ドア”が普及しても、来れない時は来れないもんですね」  つぶやくように言うと、電気牛さんもうなずいた。 「わかります。あちこちのライブ会場に実装された時は、これで仕事中でもちょっと抜けて観に来れる、って思ったもんですけどね」 「「ちょっと抜ける」のハードル、案外高かったですよね」  行先を言うだけで目的地まで瞬時に移動できる夢の”ドア”。製造コストが激安だったこともあって、瞬く間に広まったそれは、今や俺たちの生活の根幹を支えているといってもいい移動システムだ。電車など公共交通機関の利用は激減し、一時的に失業や赤字などが問題になったが、簡便な移動手段の確立は仕事の効率を上げ、また消費活動の増加にもつながったため、景気は急上昇。結果既存の交通機関を使った「風情のある」旅行がちょっとしたブームにまでなったことを受け、業界全体が中・長距離移動へと特化する形にシフトすることで、どうにか社会全体が安定を取り戻しつつある。 「まあ、言うて今日なんか、ドアなしには来られませんでしたけどね」  と電気牛さん。 「出張だったんで。電車だったらこの時間には戻って来れませんでしたよ」 「確かに、そういう心配は減りましたよね」 「遠征なくなって財布にも余裕できたし」 「でもちょっと寂しくないです? あちこちいくのも楽しかったですよね」 「確かに。でも最近、"一緒にバスツアー"みたいな企画、増えましたよね」 「あー、そういえばこないだも、ルリアンだったかな、東北にバスツアー行ったって言ってましたね」 「新時代の楽しみ方ですねー」 「お財布には厳しいですけどねー」 「ははは」  笑い声が虚しくあたりにこだまする。  やがて地下に続く階段からスタッフさんが出てきて、間も無く開場となることを呼びかけた。整理番号に従って、ゆるゆると場所を移動する。電気牛さんは六番、俺は一〇番だったので、適度に入口に近い位置で、俺たちは話し続けた。 「そういえば、気になることを聞いたんですが」  電気牛さんが秘密めいた口調で言う。 「え、なんですか?」  最近、急な解散だの卒業だのが続いているので、てっきりそういう話だろうと思って、警戒しながら訊く。 「いや、それが……ちょっと妙な話なんですが」 「なんですか、もったいぶって」 「名古屋の方のオタ友に聞いたんですけどね、最近、急に推し変する奴が多い、と」 「ああ、そういう」  正直拍子抜けした。そりゃかれこれ一〇年以上ブリビを推し続けている俺には共感しづらいことではあるが、逆にこれくらいオタクを続けていれば、推し変したオタクや、他界した、つまりアイドルオタク自体やめてしまった人を見ることなど、何度もあった。ましてブリビみたいに入れ替わりが激しく、以前のメンバーがほとんど残っていないグループなら尚更だ。俺だって推しの「まねち」がやめていたら、ここにはきていなかったかも知れない。 「いや、それがね、普通の推し変じゃないらしいんですよ。まるで、ずっと前から、その、新しい推しを推し続けてきたみたいに……前の推しを推してたことなんて、綺麗さっぱり忘れてるとしか思えないような変わりっぷりなんだそうで」 「それはまた随分薄情ですね」 「薄情なだけならいいんですけどね。サトールさん……あ、その、名古屋のオタですけど、彼が何人かに聞いて見たらしいんですよ。前はあっちのグループ推してたじゃん、どうしたの、って。そしたらみんな、キョトンとしてるんですって。何言ってんの、俺前からこっち推しだよって」 「それは流石に……」  俺は眉を顰める。推し変の結果そう言ってるだけなら薄情にしてもあんまりだし、かといって記憶が変わってるとしたら奇妙すぎる。そのサトール氏の間違いにしては、何人かに聞いてるってことだし、そんなに多くの件数勘違いするとも考えづらい。 「おかしいでしょう? それと、突然他界するオタクも多いって。それもSNSで突然アイドル関係のこと呟かなくなるとか、やっぱり人が変わったとしか思えない感じらしくて」  言われてみれば……俺は辺りを見回す。交流はないものの界隈で必ずと言っていいほどよく見た顔のいくつかが、ないような。  再びスタッフさんが出てきて、整理番号五つ刻みで呼んでいく。階段を降りていく形で待機列ができ、会話は途切れた。俺はドリンク代を用意しながら、一人考えに沈んだ。  そういえば、聞いたことがある。「ドア」は実は、瞬間移動を実現したのではないのではないか、と。  そもそも宇宙において、地球も、それどころか太陽系そのものも、目まぐるしいスピードで動いているし、それを定義できる絶対座標も宇宙には存在しない。そんな中で、しかも散文的このうえない発話による場所指定などによって、場所を過たず特定することなど不可能なはずだ……  実はドアは、使用者の脳波を読み取り、それを多元宇宙にいる無数の「使用者」と比較して、今まさに「行きたい場所」にいる世界線の本人の体に、意識を転送しているのだ、というのだ。  メーカーは否定している。だが、それにまつわる幾つかの都市伝説がある。出かけたはいいが家に帰れなくなった男の話。帰ることは帰ったが、そこには見知らぬ家族がいたと言う話。  いやまさか。スタッフからドリンクチケットを受け取りながら、俺は妄想を振り払う。もしそれが本当なら、こんなにドアが使われている中、オタの推し変くらいの問題じゃ済んでないはずじゃないか。  久しぶりのライブだ。楽しもう。  ペンライトの色順を確認したり、顔見知りと挨拶を交わしたりしているうちに時間は過ぎ、客電が落ち、聞き慣れたSEが始まる。ブリビはトップバッターだ。期待が高まり、最高潮に達したところで、ブリビが……俺の推しが……  あれっ?  見慣れぬ衣装。新衣装? なんで今日、このタイミングで?  それに……知らないメンバー、昨年卒業したはずのメンバー……まねちは……いない?  最前だと言うのにペンライトを振り上げることすら忘れて立ち尽くす俺の耳に、聞き慣れた、なのにどこかよそよそしいブリビの代表曲が、奇妙に遠くに聞こえる。
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