君とはサヨナラしたはずなのに

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君とはサヨナラしたはずなのに

 親知らずを抜いた帰り道、親知らずがしゃがんで泣いているところに出くわした。  いきなりこんな話をしても、意味がわからないかもしれない。どうしてこんなことになったのか、話を巻き戻して説明しようと思う。  物心ついた頃から、僕は右上の親知らずに悩まされていた。他の親知らずは全て歯茎の下で横に生えているのに、右上の親知らずだけは、歯茎から少し顔を覗かせているのだ。そのせいで、疲れたりストレスがたまったりすると、その親知らずがひどく痛み出す。  ネットで調べてみると、これは「智歯周囲炎」というらしい。智歯とは親知らずのことで、文字通り、親知らずの周囲が炎症を起こす病気だ。親知らずは歯磨きがしにくく、周囲に汚れがたまりやすい。疲れたりストレスがたまったりすると、その汚れが炎症を起こし、あの地獄のような痛みを引き起こすそうだ。  転職したばかりの僕は疲れやストレスがたまっていたらしく、二週間前からあの親知らずの痛みに苦しめられていた。毎日ロキソニンを飲んで痛みを抑えていたが、仕事をするのはしんどいし、食事や入浴などの日常行為さえ、ものすごく難儀だった。  しかし、歯医者に行くのは怖い。何とか歯医者に行かず完治する方法はないかと、ネットで智歯周囲炎を調べた僕は、放置すると最悪死亡してしまうかもしれない、という事実を知る。痛みで青ざめていた顔色が、もっと青ざめた。そして、白旗を上げた。「やっぱり、歯医者に行こう」と決心した。  駆け込んだ歯医者は医者も歯科衛生士もとても優しかった。僕はそれだけで痛みが少し和らぐような気持ちになった。そして、わかっていたことだが、親知らずの抜歯を勧められた。「炎症を起こしている内は親知らずは抜けないから、炎症が治まってから抜歯しましょう」と言われて、しばらくはロキソニンの日々を送った。炎症が治まった今日、やっと親知らずを抜くことになったのだ。  恥ずかしい話だが、歯医者で治療なんて小学校以来だった。成人になって何年か経っている僕だが、昨日は不安でなかなか眠れなかった。しかし、あの親知らずの痛みとはもうサヨナラしたい。僕は覚悟を決めて診察室のイスに座り、医者に向かって口を開いた。  あのチクリとする苦い麻酔を経て、とうとう親知らずを抜く段階になった。僕は首の後ろに冷や汗が伝うのを感じた。少しして「終わりましたよー」という医者の声が聞こえ、目の上に置かれていたタオルが外された。  抜歯は呆気なく終わった。あんなに悩んでいたのがウソのようだ。「これが抜いた親知らずですよ」と医者は僕から抜いた歯を見せてくれた。 「結構大きかったですけど、切開しなくても大丈夫でした」  確かにその歯はかなり大きいように見えた。歯の根元が丸くなっていて、まるで玉ねぎみたいな形だな、と僕は思った。 「麻酔が切れると痛くなると思いますから、麻酔が切れる前にロキソニンを飲んでおくと良いですよ」とアドバイスをもらい、僕は歯医者を後にした。空は晴れて真っ青で、何だか清々しい気分だった。親知らずを抜いただけで、こんなに爽快な気持ちになるなんて……。 「今日から僕は自由だ!」なんて叫びそうになってしまった。もう、あの親知らずの地獄の苦しみから開放されるなら、自由なんて言葉は大げさではないかもしれない。  そうして、僕は親知らずとサヨナラした、はずだったのに。  足取り軽く歯医者から自分の家まで帰る途中、道の端っこで抜いたはずの親知らずがしゃがみ込んで泣いているのだ。  いや、君とはサヨナラしたはずなのに、どうして……。  僕は最初、その泣いているものが抜歯された親知らずだとは気付かなかった。当たり前だ、親知らずは医療廃棄物として適切に処理されるはずなのに、誰が道端で泣いているなんて考えるだろうか。  親知らずは、一見僕より少し年下の女の子のように見えた。だから僕も、なんでこの女の子は泣いているんだろう、彼氏に振られたのかな? と他人事のように思っていた。  しかし、女の子の髪型を見た時、僕はあっと声を上げそうになった。女の子の髪型は黒柳徹子のような、俗に言う「玉ねぎヘア」だったのだ。僕はその時に悟った、ああ、この女の子は僕から抜かれた親知らずなのだ、と。  女の子、いや親知らずは、僕が戸惑っていると俯かせていた顔をゆっくりと上げた。僕の親知らずにしては、なかなか可愛い女の子だった。だが、その表情は明らかに怒っていた。 「――どうして、私のことを捨てたのよ?!」  親知らずは立ち上がると、僕に向かって大声を上げた。親知らずはものすごく怒っているらしかった。親知らずの玉ねぎヘアの後ろに、赤い炎が立ち上って見えるかのようだった。 「えっ? だって、それは……」  僕はどう答えれば良いのかわからなかった。捨てたといえば捨てたのだろうか? しかし、親知らずを抜歯するのって「捨てる」なんて言わないよね? 「私、何も悪いことしてないじゃない! なのに、勝手にあんなことするなんて許せない! 私が何をしたのよ?! ただ、あなたと一緒にいたかっただけなのに」 「いや、それは……。君は僕が疲れたりストレスがたまったりすると、ものすごく痛くなるじゃないか。僕はずっとそれに悩まされていたんだよ。僕もすごく苦しんだのに、それを『捨てた』なんて言われても……」  僕は思ったよりもはっきりと親知らずに言葉を返した。もし、普通に可愛い女の子に罵倒されたら、もっとタジタジになってしまうかもしれないが、この女の子は僕の親知らずなのだ。そう思うと、少しは言葉を返す勇気が出た。 「そんなの、あなたが悪いんじゃない! 忙しいとか言って、私を全然大切にしてくれなかったわよね? あなたが悪いのに、どうして私が悪者になっちゃうのよ?」 「でも、親知らずを抜くなんて、良くあることだよ? 僕は親知らずのことをネットで調べたけど、みんなあの智歯周囲炎の痛みに悩まされているんだよ。『症状がなくても、親知らずは全て抜歯した方が良い』と言っている人もいるし、僕だけ、そんな責められても……」  僕が歯切れの悪い言い訳をすると、親知らずは「もう!」という表情をして、あの玉ねぎヘアの後ろの炎をますます立ち上らせた。 「みんながそうだからって、あなたもそうするの? 私の気持ちも考えないで! あなたはみんなが赤信号で横断歩道を渡ったら渡るの? みんなが万引きしたら、万引きするの?」 「そんな屁理屈、言わないでよ……」 「屁理屈なんて言ってないわよ! 私は事実を言っているのよ!」  怖い、と僕は思った。自分の親知らずなのにこんなに可愛くて怖いなんて、本当に信じられない。  何も言い返せない僕に親知らずはますます怒ったのか、僕に向かって殴りかかる勢いで襲い掛かって来た。僕は悲鳴を上げると、そのまま走った。とにかく、僕が住んでいるマンションまで、一生懸命走った。  今までの人生でこんなに早く走ったことがないのではないか、という勢いで走った。そう言えば歯医者から「抜歯後は激しい運動は控えるようにしてくださいね」と言われていたような気がしたけど、そんな警告さえ振り切るような勢いで走った。そして、自分の部屋のドアを急いで開けて、そのまま中に入ると、鍵を掛けた。  のぞき窓を覗いてみたが、親知らずはいなかった。しばらく、そのままのぞき穴を覗き続けていたが、親知らずはついて来てはいないようだった。  僕は大きなため息を吐くと、その場に座り込んだ。 「何なんだよ、あいつ……」  僕は確かにあの歯医者で親知らずとサヨナラしたはずだった。僕はあの根元が玉ねぎのように丸々した親知らずを見たし、あの親知らずを歯医者に残して帰路に着いた。なのに、どうして、あの親知らずは僕を追いかけて来たのだろう。「どうして、私のことを捨てたのよ?!」と言われても、捨てるとか捨てないとかそういう問題ではないではないか。  しばらく僕はその場にしゃがみ込んでいたが、やがて気持ちが落ち着くと、部屋に入って座椅子の上に倒れ込んだ。そして、あの親知らずとのやりとりから時間が立っていたこともあり、「もしかして、あの親知らずとのできごとは夢だったのか?」と思うようになっていた。  ふとカバンを開けると、スマホに誰かから着信が入っているのに気付いた。僕の友だちからだった。僕は掛け直してみた。 「――ああ、今日親知らず抜くって言ってただろう? どうだったかなと思って。寝てたらごめんな」  僕は正直、あの親知らずとの一件で歯の痛みなんて忘れていた。そう言えば、今更になって、右上の歯茎の辺りが少し疼くような感じがした。 「ありがとう。無事抜けたよ。切開しなくて済んだし、そんなに痛くない」  僕の言葉に、友だちは「良かったな」と言った。 「でも、良く分からないんだけど、帰り道に親知らずが罵って来たんだよ」 「はあ? 何だ、それ?」  僕はさっき起こった良く分からないできごとを友だちに話した。どうしてこんな奇妙なことを友だちに言う気になったのかわからないが、話してしまった。 「――と、まあ、そんなことがあったんだよ。でもさ、『どうして私のこと捨てたのよ?!』と言われても、『えっ?』って感じだよな?」 「まあ、そうだよな」友だちはなぜか案外冷静に話を聞いてくれた。「でも、親知らずだとそう思うかもしれないけど、その親知らずが本物の普通の女の子だったら、まあ、女の子の言っていることも一理あるかもしれないけどな。――あれじゃね? あんまり痛くないと言ってるけど、抜歯したから疲れたんじゃないのか? だからそんな幻みたいなものを見たんじゃないのか?」 「そうかもな、歯の治療なんて、小学校以来だし……」 「そうだよ、今日はゆっくり休めよ。少し横になれば? 疲れているのに、電話して悪かったな」 「ううん、こっちこそ、変な話まで聞いてくれてありがとう」  僕は友だちとの電話を切ると、軽くシャワーを浴び、パンを一欠けら水で流し込んでロキソニンを飲んだ。そして、友だちの言った通り、ベッドに横になった。  天井を見つめながら、友だちの言った「その親知らずが本物の普通の女の子だったら、まあ、女の子の言っていることも一理あるかもしれないけどな」と言う言葉を思い出した。  あの言葉、何だか引っかかるな。  そう言えば、女の子は自分が親知らずだとはひと言も言ってなかったっけ。ただ、黒柳徹子みたいな玉ねぎヘアが抜歯した親知らずの根元に似ていたから、僕がそう思っただけだ。  あの女の子、本当は何者なのだろうか。  目を閉じると、転職前の職場のことが頭に浮かんできた。しかし、まるで記憶にモヤがかかっているかのようにはっきりと思い浮かばない。僕は諦めて意識を手放すと、眠りについた。 【了】
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