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「みんなに配っていいかな?」
「あ、はい。もちろん」
そう言うと同僚は紗英の肩をぽんと叩き、お菓子を紗英のところに置いた。
同僚が去ったあとも紗英はそのお菓子箱をしばらく眺めていた。
取引先の社長は、いつも元気で、社員にも、他会社の人たちにも好かれている。
そしてどこか、祖父に似ている雰囲気があった。
紗英は取引先に電話をした。
電話をすると、すぐに社長に繋いでくれた。
「社長、お菓子ありがとうございました。えっと……」
「あぁ、安物で悪いね。うちのカミさんが美味しいって言っていたから味は大丈夫だと思う」
社長は豪快に笑った。
紗英も思わずつられて笑ってしまう。
「あの……」
なんと切り出せばいいのか、分からなくなり、言葉が出てこない。
ただの事務で、役職ももちろんもついていなくて、営業みたく成績があるわけでもない。いなくてもいても変わらない、誰にでも出来る仕事を淡々としている30歳超えの女に、世話になっているなんて、疑問しか浮かばない。
そもそも同僚が気を使っただけで、社長はそんなこと言ってなかったり……
「変わらずに対応してくれるのは君だけだったな。最初の頃」
あれこれ考え言い迷っている紗英に、社長は懐かしそうに口を開く。
「え?」
「この業界にさ、来てすぐのころ。変なおじいさんが来た、みたいな感じで。この歳で社長になって、初めて、大変さに気付いたよ。自分が今まで働かせてもらっていた会社の社長も、こういうの乗り越えて、俺たちを守ってくれたんだななんて思ってさ」
「……大変なお仕事だと思います」
紗英は初めて来たときの様子を思い出し、ふっと笑った。
社長はすごく緊張していて、慣れていないであろうスーツを着て、汗を拭いていた。
「あのときのお茶、美味しかったな」
「お茶?」
「熱くもなく、冷たくもなく、なんかちょうどよかったんだよ」
「それはよかったです」
あのとき、本当はすぐ飲める冷たいものか、常温のものを出したいと思ったが、汗をかいていたのは社長だけだった。
冬だから全員に冷たいのを出すわけにもいかない。けれど、社長だけ別のものを出すのもためらわれた。いつも来ている来客ではなかったからだ。
紗英は考えたすえ、熱いのを入れたあとに少し湯呑の周りを冷ましてから出した。
あとからよく考えれば周りを冷ましたくらいじゃ、中の温度なんてそう変わらないはずだと気付いた。
その時のことを考えていると、社長がふぅと息をついた。
「わざとあの温度にしてくれたんだろう?俺が、汗かいてたから」
社長の言葉に紗英は驚いた。
誰も気付かないと思っていた。自分でもよくわからないことをしたと思っていたくらいだ。
それでもなにか自分に出来ることは、咄嗟に思いついた。
その程度のことだった。
「……湯呑の周りを少し冷ましただけですが、あまり変わらなかったのではないでしょうか」
紗英は小さくそう呟いた。
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