祈りの魔王を継ぐ者

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 生まれながらに強大な魔力を持った赤ん坊は、生を受けたその日より「聖女」となりました。  白亜の神殿で大切に育てられた彼女は、多くの人から愛されつつ、その存在理由と義務を言い聞かされます。 「お前の祈りが、世界を平和にするのだ。この世界から、争いや憎悪、悲しみや苦しみをなくすのだ。お前はその象徴なのだよ」  十歳にも満たない聖女は、外遊びをすることもなく、毎日世界に祈りを捧げます。  十五歳になっても、聖女は恋の一つも知らずに、ひたすら世界のため、人々のために祈りを捧げます。  けれども、どうしてでしょうか。 「東の地方では盗賊が村を襲った」 「西の地方では王族同士の争いで裏切りや暗殺が耐えない」 「南の地方では殺人鬼が暴れ回っている」 「北の地方では民族同士でいがみあっている」  毎日たくさんの祈りを捧げているのに、人々は隣人を愛することができません。争いや憎悪はなくなりません。悲しみや苦しみは生まれ続けます。  神殿に風のように流れ込んでくる、世界の様子。聖女は心を痛めました。  自分の祈りに意味はないのか。自分の力はその程度なのか。  聖女として、自分にもっとできることはないのか――。  ついに聖女は泣いてしまい、その日一日、祈りをやめてしまいました。 「人間とは、どうしても争うものなのです」  聖女にそう教えたのは、召使いの一人でした。聖女の幼なじみといっていいほどに共に育った彼女は、聖女の親友でもありました。 「きっと人間とは、そういう風にできているのです……でもそれでは、あまりにも悲しいではありませんか。だから、あなた様がいるのです。あなた様の祈りが、人間の心の悪い部分を、宥めるのです」 「でも本当に、そうかしら。私は……自分の祈りの意味が、自分の存在の意味が、わかりません……」  それでも次の日から、聖女は再び祈りを捧げ始めました。それしかできなかったのです。それにもし祈りをやめたのなら、世界はもっとひどいことになってしまうかもしれない……それが怖かったのです。  聖女の心は、真っ暗な道を、小さな蝋燭の灯り一つで歩いているのと変わりありませんでした。この道は果たして正しいのか。先に何があるのか。わからないまま、進んでいきます。  光が見えたのは、聖女が十八歳を迎えた頃でした。  じわじわと激化していく人々の争い……小さな争いが嵐となり、とある二つの国が激しい戦争を始めました。するとどうでしょう、二つの国を虎視眈々と見据えていた第三の国が、争いに疲弊した二つの国に奇襲をかけたのです。すでに弱り切っていた二つの国は、第三の国に破れ、食われてしまいました。  戦争を始めた二つの国は、愚かだったと言えたでしょう。そして二つの国が弱ったところを狙った第三の国は、あまりにもあくどいと言えたでしょう。  しかし聖女は確かに聞いたのです。第三の国が奇襲をかけた際、二つの国はそれまで争っていたことを忘れ、手を取りあったということを。結局は負けてしまい、またそれ以前は争っていたものの、確かにその一瞬、手を組んだのだと。  もし。  もし、争う人々の前に、強大な力を持つ、恐ろしい存在が現れたら?  平和を祈り、争いのない世界を望む聖女は、考えずにはいられませんでした。  人類全員の敵となる存在――それはきっと、ひどく恐ろしく、ひどく残酷な存在でなければいけないでしょう。  もし自分が、そんな存在になれたのなら――それこそ、平和を祈るために生まれた、自分の役割なのでは?  ところが、祈る中、聖女は震えてしまいます。もしもそうなれたのなら、人々は争わなくなりますが、自分と争うことになります。自分が争いを生むことになります。  争いは悪いこと。人類全員の敵になるということは、自分が悪になるということ。  それでも。それでも。  世界の平和を祈る、聖女というのなら。  争いを、自分と人類、そのたった一つだけにできるというのなら。  ……震えたままの聖女を、召使い達が心配します。その日、聖女は早めに祈りをやめました。  召使い達は、聖女様は体調を崩されたのだと口々に言いますが、本当はそうではありません。  ――聖女は悪となり、そしてもう後戻りできなくなるための、残酷な方法を考えていました。  明くる日の朝。聖女の親友でもある召使いが、彼女を起こしにやってきました。 「おはようございます、聖女様――」  しかし言葉はそこで止まり、召使いが腹を見れば、銀色のナイフが深く刺さっていました。  そのナイフは、聖女が祈りの際に使うものでした。握るのは、聖女の震える白い手でした。白さは溢れ出る血に赤く染まっていきます。  聖女が勢いよくナイフを引き抜けば、親友は床にくずおれ、赤い水溜まりが広がりました。ナイフから飛び散った赤色が、聖女の頬に飛びます。  聖女は微笑んでいました。その手はもう、震えていませんでした。  だってもう、戻れなくなったのですから。  人を、それも親友を殺しました。  ――だからもう、何も怖くありませんでした。 「おはようございます。ごめんなさいね。私、今日から祈るだけの聖女をやめようと思ったのです。私は――みなさんの敵、魔王になります」  ――聖女の世界を愛する力は、そのあまりもの愛故に、黒く染まりました。  ――白亜の神殿は魔王の城となり、聖女から溢れ出る魔力は、形を得て、意思を得て、あまたの魔物となりました。  魔物は人々を襲います。人間同士で争う暇を与えないために。魔王という、人類共通の敵の存在を知らしめるために。  そうして人々は、同じ人間に向けていた剣を、杖を、弓矢を、槍を、魔物と魔王に向け始めました。強大な魔物が現れたのならば、どこの誰であってもかまわず手を握り、勝利すれば共に喜びます。敗北すればなくしたものに涙し、憎しみを魔物と魔王へ向けつつも、また人々と手を握ります。  全ては聖女の、否、魔王となった彼女の思った通りになりました。  祈るだけではあまりにも無力でした。けれどもこれなら。  いま世界で起きている争いは、一つだけ。  人類と魔王の戦いだけです。  人々は、人間同士で争うことがなくなりました。  それでも、世界では悲鳴が上がり続けます。  魔物に襲われる、人間達の悲鳴が。  国をなくした男の声が。  夫を亡くした女の声が。  両親とはぐれた子供の声が。  生まれる前に亡くなった、赤ん坊の声なき声が。  すべては魔物によるもの。すべては魔王によるもの。  それでも。それでも。  ――魔王は魔王であり続けました。  人々が争わない世界を願って、耳を塞ぐこともできず、背を向けることもしませんでした。  ただ見据えていました。ただ受け止めていました。  潰されないように、親友を刺し殺した感覚を、何度も思い出しながら。
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