不思議な劇場

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 僕がいる会社はいわゆるブラック会社だ。同期で入社した社員で残っているのは僕を入れて二人だけだ。だけど、もう一人は昨日から出勤していない。おそらく、いや、絶対にこれからも出勤しないだろうと思う。  今日もまた朝から営業に出かけたけれど、何も成果がなかった。これから会社に帰って課長に報告すれば、いつものように罵声を浴びるんだろうなあ。そんなこと思っていると憂鬱になってきた。  真っ直ぐ会社に帰る気にならないので、僕はどこかで時間をつぶすことにした。喫茶店かゲーセンを探してぶらぶら歩いていると、いつの間にか私鉄の駅裏の寂れた通りに出た。安っぽい飲食店が並んでいる。僕は店の看板を見ながら通りを進んだ。 『体験劇場』という看板が目に入った。看板は両隣りを雑居ビルに挟まれた建物に掛かっていた。建物は地方都市にありそうなレトロな映画館のような外観で、入り口付近にはチケット売り場らしい窓口がある。  こんな裏通りに劇場があるなんて意外だった。映画館だろうか、それとも演芸場だろうか。まあ、どちらにしても時間つぶしにはなるんだろうと考えて、僕はその劇場に行ってみることにした。  ところが、チケット売り場らしい窓口に行ってみると、映画のポスターが貼ってない。演芸場だとしても演目の案内がない。奇妙な劇場だ。 「入るのかね?」  僕が戸惑って突っ立っていると、不意に窓口のアクリル板の向こうに顔が現れた。老人といってもよいほどの年配の男の人だった。 「あっ、いえ」男の人の突然の出現に、僕は一瞬驚いた。「この劇場は何を公演してるんですか」 「ここはね、体験を公演してるんだよ」 「体験を?」  男の人は何だか訳の分からないことを言う。 「そう、体験なんだ」  体験劇場は劇場の中に街があって、俳優たちはそこの住人に成りきって演技をしている。観客は客席から彼らの演技を見るのではなくて、自分も同じ街の住人として演技に参加する――見るのではなくて、観客も劇を体験するという新しいタイプの劇場だ、と男の人は説明した。 面白そうだな。興味が湧いた。僕は入ってみたくなった。 「劇場に入りたいんですが、入場料はいくらですか」 「入場料なんてないよ。ポケットを探ってみなよ」
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