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僕は大河内健太役を続けた。毎日の生活は楽しかった。何人かの会社の同僚たちは新しい人に代わったけど、会社の良い雰囲気は変わらなかった。父さんと母さん役も代わった。でも、楽しい家庭は変わらずにずっとそのままだ。
なのに、このごろふとした時にちょっぴり寂しさを感じることがある。なぜなんだろうな。
それは思いがけずに現れた。あの『体験劇場』が僕の前に現れたんだ。
得意先からの帰り道、バスの窓から外の景色を眺めていると、見覚えのある建物が目に入った。レトロな映画館の外観――『体験劇場』だ。慌てて降車ベルを鳴らす。
バスを降りると、もと来た道を走って引き返し、劇場へと向かう。
劇場のチケット売り場を覗くと、あの男の人がいた。
「入るのかね?」
男の人が聞く。
「ええ」
「入場券はあるのかね」
「入場券ですか」
そうだ、入場券だ。確かポケットを探るんだったっけ。スーツのポケットに手を入れる。あった。
僕はポケットから取り出した入場券を男の人に渡した。
劇場の木製のドアを押して中に入ると、廊下が伸びていた。廊下は迷路のように幾度も折れ曲がり長く続いていた。やがて、前方にドアが見えた。木製のドアを押し開けた。
ドアの向こうには、どこにでもあるような街の風景が広がっていた。
パン屋があり時計店がある。アイスクリーム店からはアイスクリームを舐りながら女子高生が出てきた。
書店があったので、僕は入った。新刊書コーナーで新しく出た本の表紙を眺めていると、
「モリヤマ君、ここはいいからレジ手伝ってくれるかな」
四十歳前後の男の人が声をかけてきた。
モリヤマ――僕のことなんだろうな。新しい役はモリヤマか。
「はい、分かりました」
と、モリヤマ役の僕はレジに向かった。
レジには僕と同じ年頃の女の人がいて、一人で客と応対している。
レジの前には長い行列ができていた。
「応援に来ました」
僕は女の人に告げた。
「ありがとう、モリヤマさん」と女の人は微笑んで、「隣のレジお願いね」
涼やかな目をした感じのいい人だった。
「まかせてください」
僕は言った。
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