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2 小さな女の子
「じゃあ……そう……泣きながら歩いている小さな女の子を、見つけたところから」
ソファに座る睦月の腋の下に、すっぽり身体を収めると、その胸に顔を埋めた。
身体を通して響く睦月の穏やかな声が、私の鼓膜を震わせる。鼻を擦り付けるようにして睦月の匂いを吸い込むと、ばらばらだった迷い子の私が、ちゃんとした私になるような気がした。
睦月は私の頭に柔らかく唇を落とすと、その日のことを思い出しながら、心地よい声色で、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「……誰か、いないだろうか、と僕が一人、諦めにも似た気持ちで、街を彷徨い歩いているときだった。どこから現れたのか、それまで、どこに隠れていたのか。小さな可愛らしい女の子が、白くふっくらとした頬を涙で濡らし、歩いているのが見えた。柔らかそうな細く糸のような髪。木苺のような唇。涙に濡れ不安気に曇る大きな瞳。僕だけしかいなかったところに、突然、たった一人で……夢じゃないか、と思ったよ。信じられないものを目にした僕は、あまりの幸運に気が触れてしまいそうになった」
「……それが、私ね?」
「そう……君だよ。もう誰にも出会えないと思っていた僕の目の前を、小さな可愛らしい女の子が、ぐすぐすと鼻を鳴らし肩で息をしながら、恐るおそる辺りを見回し歩いているんだからね。その幼気で可憐な様子といったら……ひと目見た瞬間に、天が僕に与えた贈り物だと分かった」
「……睦月は、私に声を掛けたのよね? 『どうしたの? 一人なの?』って」
思い出に浸る睦月は、目を細めて頷く。
「膝を折り、顔を覗き込んで見ればその女の子の、すべすべした白くまあるい頬は涙で、きらきらと輝いていた。恐怖に怯え濡れた睫毛に縁取られた目は、どんな宝石よりも綺麗だった。僕は近寄ると、そうっと、ちっちゃな両手を取って聞いたんだ。『どうしたの? 一人なの?』って、ね。そしたらその女の子は最初に首を横に振ったあと、可愛らしい仕草で少し考えてから素直に、こくん、と小さく頷いた」
「そうして睦月は『じゃあ、一緒に来る?』って聞いたんでしょう?」
「そうだよ。思い出せない? 本当に全然、覚えていないの? 僕は、その小さな女の子を抱き寄せると『怖がらないで。僕は、君を幸せにしたいだけだよ』と言ったんだ」
私は、そのときのことを、覚えていない。
何も覚えていないなんて残念だわ、でも、怖いことは全部忘れてしまえて良かった、と呟く私を睦月は、両腕の中へ閉じ込める。
愛おしいというように、私に鼻先を擦り寄せる睦月。そんな彼の首に私も、寂しい隙間を埋めるように、両腕を伸ばす。
それでも私には繰り返し見る夢があった。
狭くて暗く息苦しいものの中で、身体を小さくし、揺れる振動にじっと耐える私。
低い獣の唸り声は終わりなく、時折お腹の底にまで響く大きく轟くような咆哮が、怖くて堪らない私。
それはきっと、壊れた世界の記憶の断片。
睦月が、一人になってしまった私を見つけてくれなかったら、どうなっていただろう。
壊れた外の世界から私を守る、安全な、このシェルターへ連れて来てくれなかったら、どうしていただろう。
そんな互いだけの孤独を埋める私たちに、不意に発電機が、不平を漏らすような大きく震えた音を立てた。
「私の名前を付けてくれたのも、睦月なのよね?」
「そうだよ。まだあまりにも幼いうえに、一人になってしまった恐怖から言葉を忘れ、名前も言えない君に、僕が付けた名前……六花。頬を飾る涙が美しかった。うっすらと細かな白い産毛を燦かす涙の雫は、僕に、雪の結晶を思い出させたんだ」
出会ってから、十年と少し。
私は優しい睦月に色々なことを教わる。
恐怖から言葉を忘れ、喋ることも出来なくなってしまった私。幼過ぎて読み書きも、儘ならなかった私に、言葉や文字を教えてくれたのも睦月だ。そのおかげで、睦月が、私たち二人が生きてゆくために、壊れてしまった恐ろしい外の世界へ、食べ物や生活に必要なものなど二人が必要とするものを探しに行く間、恐ろしい外の世界のことを全て忘れた私は、安全なこの場所で、本を読み美しい物語の中で彼を待つことが出来る。
また、小さな女の子だった私が、女性になった日。身体から流れだす血を見て悲鳴をあげた私に、睦月は、私たち二人の身体は対になっていて不足を埋め合わせるように創られていることを教えてくれた。
そのために、壊れた世界にたった二人、私と睦月は出会ったのだと。
六花、と耳元で睦月が囁く。
その低く甘い声で、名前を呼ばれれば、私は忽ち身体が溶けてしまいそうになる。最初の痛みばかりの頃を過ぎれば、馴染むごとに身体は溶け合うのだと、何度も繰り返し、優しく丁寧に睦月は教えてくれた。
「いつの間にか六花は、もうすっかり、小さな女の子じゃなくなってしまったね」
睦月の熱い唇が私の首筋を這う。
思わず私が漏らした吐息に、睦月は掠れた声で「お風呂へ入ろう。身体を清潔に保つのは大事だからね」と言った。
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