5 苺の髪留め輪ゴム

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5 苺の髪留め輪ゴム

 黄色く色づいた銀杏(イチョウ)の葉は、あのとき私の手を離れた後、どこかへ、消えてしまった。  まるで、夢や幻想だったように。  それと同時に、睦月の中の獣も、黯い目の色もまた、私の見た夢か幻想だったかのように消えたのだった。  いつもの穏やかな日々が『今日も昨日のように、毎日、まいにち、過ぎる』のだと信じていたかった。  どんな物語でも、そんなことは有り得ないと、もう幼くはない私は、知っているのに。  物語には始まりがあって、終わりがある。  幸せな終わりも、そうではないものも。  食糧が尽きてきたことで、睦月は、いつものように私を置いて、外へ出掛ける支度をする。あれからずっと、床に放り出されたままになっていた背負い鞄を、睦月に言われて手に取った。  何も入っていない大きな背負い鞄は私が半分ほど入りそうで、もっと鞄が大きければ、あるいは私が小さければ、すっかり中に隠れてしまえるものだった。  その時、足元に音を立てて落ちるものがあった。真っ赤な苺が二つ付いた、可愛らしい髪留めの輪ゴムを目にした途端、なぜそんなことをするのか、理由を考える暇もないままに素早く拾い上げて掌の中に潜ませると、その手を、背中に隠す。  そう……。  私たちに忍び寄るものは、形を変える。  不確かなものから、確かなものへ。  黄色く色づいた銀杏の葉から、真っ赤な苺がついた髪留めの輪ゴムへ。  支度を済ませ、黒い防護服で全身を覆った何も気づいていない睦月に、背負い鞄を片手で手渡しながら「すぐに戻る?」と尋ねる。  恐ろしい外の世界へ行くために必要な、球状の頭部を保護する被り物を身につけながら睦月は「そうだね……少し……遠くまで足を伸ばしてみようと考えている。どんなに遅くても、必ず戻るよ。六花(りっか)は、何か欲しいものは、ある?」と首を傾げる。 「……睦月が、ここに無事に帰って来てくれるなら何も要らない」  世界と隔絶した、この安全で閉じた物語の中に一人きりでいる私に、果たして、睦月以外の欲しいものなんてあるのだろうか?    外の世界へ睦月を吐き出す天井の丸いハッチのハンドルロックの閉じる音が、こんなにも大きく聞こえたことはなかった。  一人になった私は掌の中を覗き込んで、消えたりしていない、その小さな女の子が髪を結えるゴムを、その真っ赤な苺二つがついた髪留めを、じっと見下ろす。  ……底なしの淵のように。  私は、気づかないふりをしていたのだ。  そこかしこにある、違和感を。  美しいと信じる物語の中に、閉じ籠もって、いつまでも夢をみていたいが為に。 『王さまはエリーザのためには、どんなことでもなさいました。それでエリーザも、一日一日と、日がたつにしたがって、ありったけの心をかたむけて、王さまをだいじにするようになりました。ああ、それを口にだして王さまにうちあけられることができたら、そして心のかなしみをかたることができたら』    見方を少し、変えるだけ。  すると同じ物語が、違う顔を見せ始める。  王さまは、一人でいたエリーザを(さら)った。  傍に誰もいないことを良いことに、退路を塞ぎ、抗うことは許さず、甘い言葉を囁いて。  泣いて両手をもみながら、首を振るエリーザを馬に乗せ、無理矢理に城へ連れ帰った。  悲しみに暮れていたエリーザだったが、自分を拐ったとしても頼るしかない王さまから、向けられる愛情の深さに触れ、やがては心を傾けるようになる。  だが、物語の終わりは少し苦い。  この物語の終わりを、少し苦いものにしているのは、エリーザが心から愛しているのは、王さまではないのが分かるからだ。  エリーザが本当に心から愛し合う人は誰だったのか、あちこちに散りばめられ、仄めかされていたことが、その苦味を残した結末で明らかになるようになっている。片翼の翼という形で。赦されることのない、特別な二人は、この物語の中にもいたのである。  それでも最後に王さまは、いちど死んだもののようになったエリーザに一輪の白い薔薇を贈る。それによってエリーザが目を覚ましたことから、王さまの一途な愛はエリーザに届き、受け入れられたことが分かるのだ。  いつまでも、美しいだけの物語を信じていたかった。  睦月から聞かされる壊れてしまった世界を信じていたのは、私が、美しいだけの物語の中に居たかったからに過ぎない。  今なら分かる。  私が真に恐ろしかったのは、私から全てを奪い、それなのに、私の全てである睦月の、唯一では無いと気づかされることだった。  私は……睦月から、一輪の白い薔薇を、贈られることもない。  睦月は……私と、比翼となる片翼の翼を、持たない。  なぜなら、この掌の中にある、小さな女の子が使う真っ赤な苺の髪留め輪ゴムが、その答えだから。  壊れているのは、世界ではない。  私たち、だ。    ――ああ、忍びよる外の世界は、なんて恐ろしいのだろう。  
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