1.『痕跡文庫法』に則り、あなたをこの"物語"へと帰します

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1.『痕跡文庫法』に則り、あなたをこの"物語"へと帰します

 物語の世界の登場人物が、現実世界へ飛び出してきたら、という空想を、誰もが一度は考えたことがあるだろう。  かくいう彼女、アイビー・ベイカーも例外ではない。  決して裕福ではない孤児院で読んだ、お気に入りの一冊。  一字一句覚えるほどに読み込んだその一冊の物語に生きる主人公と、もしも言葉を交わせたら、どんなにすてきなことだろう、と。  子供のころは、無邪気にそんなことを願っていた。  が。  今のアイビーの考えは、違う。  それはすてきなことではない、と。  彼女は知っているからだ。  もう陽の暮れる時間だった。  市の中央に位置する広い公園には、アイビーと二人の男が立っている。  一人は、アイビーの傍らに控える青年。  もう一人は、アイビーを憎悪で睨みつける猫背の青年。  ヒュウ、と冷たい風が吹き、アイビーの灰色の髪を揺らす。 「物語"ハーゲン屋敷殺人事件"、"登場人物"の"犯人役"ルドヴィコ……。本人でお間違いないですね?」 「……お前、その服……その手の本……」  ルドヴィコは震える指で、アイビーの持つ本を指した。  彼女の左手には、辞典にも匹敵する厚さの本が抱えられている。  その本こそ、『ハーゲン屋敷殺人事件』だ。 「『痕跡文庫法』に則り、あなたをこの"物語"へと帰します」  アイビーが凛と宣言したと同時に、ルドヴィコが動いた。  右手にナイフを持ち、一瞬でアイビーまで距離を詰める。  アイビーは一瞬だけ目を見開き、一歩後ろへ下がる。  ナイフがアイビーの首に迫るより前に、アイビーの隣にいた青年が躍り出た。  その青年がアイビーを胸に抱き寄せ、片方の手をルドヴィコの前にかざした。  その手からは、極彩色を薄く滲ませた透明の壁が作り出されている。  透明の壁がナイフをガチリと防ぎ、そして切っ先を中心にヒビを入れられたかと思うと、パリン、と音を立てて崩れた。 「な、なぜだ」  ルドヴィコの目が、今度は青年の方へと映る。  自分への注意がそれたことを見逃さず、アイビーは持っていた本を開き、ルドヴィコに見せた。  そこは、物語の始まる一ページ目だ。   「あなたは、この世界にくるべきではないわ」 「!」 「"終幕"」  アイビーが短く言い放つと、本が目映い光と共に円型の紋章を発した。  ルドヴィコほどの体もすっぽりと覆うことができるほど、紋章は大きい。  ルドヴィコの手が、描かれた円の中へと吸い込まれていく。  どれほど足を踏ん張っても、どれほど腕に力をいれて後ろへ引いても、彼の手はどんどん引き込まれてゆく。 「どうして! お前たちにどんな権利があって!」  ルドヴィコの必死の声が聞こえる。 「残念だけれど、現実と空想は交わるべきではないの」 「このクソガキ! 特権階級め! 俺たちはお前の"世界"に虐げられているんだぞ!」  アイビーは眉をしかめたが、手を緩めない。 「おっしゃる通りよ。……だから何?」  ルドヴィコは物語に引き込まれ切るまで、ずっとアイビーを罵り続けていた。  ルドヴィコの姿が完全に消えると、紋章はシュンと宙に散る。  光を放っていた本はただの分厚い本に戻り、アイビーによってガチリと鎖で施錠される。  ふう、とアイビーは息を吐く。 「終わりね」 「ああ」  銀髪の青年が、頷く。  アイビーよりも頭一つ背の高い彼は、緩やかに微笑を浮かべている。   「今回は、及第点といったところかな」 「……あなたにとっての及第点なら、まあまあね、シリル」 「よくわかっているじゃないか。驕らず腐らず、今後も精進してくれ、アイビー」  アイビーは首を縦に一度動かし、その場を後にする。
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