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「好きな人だなんて、そんなのひどいよ!」
高校生ぐらいの私なら、迷わずこんな言葉をぶつけていただろう。
彼氏に浮気心が芽生えるだなんて、そんなのありえない。誠実じゃない。信じて付き合ってきた私の気持ちはなんだったの!? と詰め寄ったかもしれない。その結果、もう二度とその人には会えなくなることだってザラにあることすら考慮せずに。
しかしある意味それは、とても純粋で素直で、世界は自分に対していつも優しくしてくれるものだと信じて疑わなかった証拠だ。巷には大小様々な悪意がその辺にゴロゴロと転がっているなんて知らなかったんだ。知らないまま、綺麗なまま、守られたまま、の私であっただけだ。それは恥ずべきことではない。だってみんな初めはそうなのだから。
「……そうなんだ。うん、分かった」
一瞬のうちに“もしも”の自分を思い浮かべつつ、実際に口から出てきたのは、自分でもびっくりするぐらい冷静な言葉だった。
そんな私の言葉に彼の方も眉を歪めて怪訝そうな表情になった。
きっと私がもっと取り乱したり、問い詰めたりすることを期待していたのだろう。まるでどっちが振られたか分からないくらい、彼の悲痛な心の叫びが、私には見て取れたのだ。
そんなの、なんて欲張りなの。
途端に私の胸の中で広がる怒りと違和感が、自分でも分かるくらい顔に出ていたんだと思う。
彼は、「じゃ、じゃあ……」と為す術もなくうなだれて、「さよなら———」と力なく呟き、席を立った。
私は必死に前を向いたまま、彼がそのまま早く店から出て行ってくれることを祈った。
彼の気配が完全に消えた後、ゆっくりと後ろを振り返ってみる。
当然ながら、見渡す向こうに彼の姿はどこにもない。
「はぁ……」
突然の出来事に、何の現実味もないまま「終わってしまった」という虚脱感だけが私を襲う。
再び前を向くと、そこには彼の飲みかけのホットティーが主人を失くした忠犬みたく、寂しげに残っていた。
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