第3話 浮気男と冬のバラード

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「ただいま」 あの日、家に帰ってからずっと、彼の「別れてくれないか」がフラッシュバックして止まなかった。 何十回、何百回、何千回と同じ台詞が再生された。 それは無意識に、心の傷を癒すための行為だった。何千回も「痛い」瞬間を繰り返していれば、そのうち耐性がついて心が鈍化し、きっと何も感じなくなるだろうと考えたからだ。いや、“考えた”というよりは、それはもうほとんど心の防衛本能がそうさせたのだ。 しかし、次第に脳が疲れて痛みの瞬間を再生できなくなる。 その途端、一瞬だけ何も感じない、無の時間が訪れるのだけれど、しばらくしたらまた何かの折にふと思い出してしまう。 私はやはり、彼がいないとダメなんだ———……。 この一週間ほぼ毎日同じことを思い出し、同じ考えに至り、同じ痛みを味わいながら過ごした。 机の上の置いたジュエリーボックスの中にしまってあるルビーのネックレスに、一度も触れられない。箱を開けることすらできない。それを見てしまえば、貰った時のあの感動を、悲しい感情に塗り替えてしまう気がしたからだ。 彼は今、どんな気持ちで過ごしているのだろう。 “好きな人”と一緒にいるのだろうか。 楽しい日々を送っているのだろうか。 私と過ごした10年を白紙に戻して、新たな人生を歩み始めたのだろうか。 そう考えるだけで、悲しくて身体が震えた。 普段はあれだけサバサバとしたOLを装っているのに。 後輩から尊敬される先輩でありたいと願っているくせに。 彼がもし、今この瞬間に私と同じように悲しみや後悔に暮れていたらどんなに嬉しいだろう———と、柄にもないことを何度も思った。 分からない。 分かりたい。 分かりたくない。 知りたくない。 でもやっぱり、知りたい———っ。 一度そう思うと、“知りたい”が離れなくなって。 彼のことを本当はもっとずっと知っていきたいという気持ちが溢れそうになって。 ああ、私はこんなにも、峰友貴人という存在に恋い焦がれていたんだ———と、今更気づいて。
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