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仕事に行きながら、働いていてこんなに良かったと思ったことはない。
だって、仕事中は目の前の仕事に一生懸命になっていれば、少しは気が紛れるから。それでもあの二人のことを全然考えない時間はないのだけれど。
「茜さーん、いつにも増して、なんか大変そうですね」
相変わらず感の鋭い菜々子が、朝礼後30分で私の異変に気がつく。さすが、我が後輩だ———なんて褒め称える元気もなく、「ちょっと色々あってね」とその場しのぎに答える。普段は後輩に曖昧なことを言うのはやめておこうと決めているにもかかわらず、それが私の精一杯だった。
「ほんと、無理は禁物ですよ。あ、そういえば、さっき」
「ありがとう……もうちょっとだけ頑張るわ。で、どうしたの?」
「茜さんが来る前、電話があったんですよ。茜さんの電話に、外線で」
「外線?」
仕事上、外線でお客さんから電話がかかってくることはよくある。
しかし、始業前に電話を掛けてくるような客はあまりいない。本当に切羽詰まっているか、よっぽどの不満があってすぐに対処してほしいところぐらいだ。
「そうなんです。男の人で、茜さんいますかって聞かれたから、『まだ来てない』って伝えておきました。そうしたら、『あ、そうなんですか。じゃあ……』って、すぐ切られちゃいましたけど」
電話番号控えるの忘れちゃいましたー、へへっと笑う菜々子が今の私にとってどれだけ救いになっただろうか。
「それ、たぶん」
菜々子の電話の相手。
分かりすぎるくらいに分かった。
「もしかして、彼氏さん? ストーカーとかじゃないですよね?」
茜さん綺麗だから、と菜々子はまだ笑っている。
「彼氏……かな」
嘘つき、と自分を詰る。
友貴人は彼氏なんかじゃない。
私たちは別れたのだから、恋人じゃなくて赤の他人なんだ。
他人。
口にしてしまうと、なんて寂しい響きなんだろう。
赤の他人だなんて、10年も一緒にいたのに、そんなこと受け入れられるだろうか。
「やっぱり彼氏さんだったんですね! じゃあちゃんと、折り返してあげてください」
彼女は、なぜ彼氏が会社の番号に電話をかけてくるのかという疑問すら抱いていないような素振りでそう言った。
一体なぜ、友貴人は会社に電話をかけてきたの?
気になったけど、その日は彼に電話を折り返すことができなかった。
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