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1.朝の庭
花が好きだった母さん。小さな庭に植えてある花の世話をしている姿ばかりが目に浮かぶ。
中でも好きだったのは、花びらが重なっていてピンクで縁取られているようなその花だった。そしてその花はいつも下を向いている。
「このお花はね、クリスマスローズって言うのよ」
痩せていた母さんの手が、優しくその花に触れる。
「でも今はクリスマスじゃないよ」
幼い俺が隣で口を尖らせてそう言うと、母さんは微笑んだ。
「この子たちは春先に咲くのよ」
花を触れていた手が俺の頭を優しく撫でる。
それから数年経って、母さんはいなくなった。青空のもと、黒い服を着た父さんはまるであの日のクリスマスローズのように下を向いていた。
***
「智紀」
朝日が入り込むダイニング。トーストにジャムを塗っていたら、向かいに座る蒼介さんに話しかけられた。隣に立つ執事の高次さんが紅茶を淹れてくれて、ふんわりと甘い香りがする。
「はい」
「さすが二年生だな、ネクタイも綺麗に結べるようになって」
「毎日結ぶと慣れてくるよ」
高校生になるまでネクタイをする習慣なんてなくて、入学前に蒼介さんに結び方をレッスンしてもらったことを思い出す。
微笑みながら、蒼介さんは紅茶を口にした。会話を聞いていた高次さんも、少しだけ口元を緩めている。
俺の義父である蒼介さんは篁家十三代当主だ。篁家は明治から続く商社を経営している。一時期、色々手を広げ財を成したのだが、蒼介さんの父である十二代が色々と事業を整理したと聞いた。
三十四才の蒼介さんが俺を養子に迎えたのは、二年前のこと。当時篁家の執事をしていた俺の祖父が頼み込んだらしい。
俺は『あること』を条件に、この篁家に養子に入り、次期十四代当主となるべく日々を暮らしている。
紅茶を味わいながらふと、時計を見るとそろそろ出る準備をしないといけない時間だ。
「あ、しまった。今日は執行部の【朝会】だからもう行かないと」
慌てて紅茶を飲み干して、カップをソーサーに置く。自宅で仕事をする蒼介さんはまだゆっくりとトーストを食べている。
「ずいぶん早いんだね。僕が在校生の時には【朝会】なんて、なかったけどなあ」
「羨ましいな」
鞄を手にして、鏡の前に立ちネクタイを再度調整する。よし完璧だ。
「では行ってきます」
「気をつけて」
手を振る蒼介さんを後にしてドアを開いた。
俺が通う徳南学園は、裕福な生徒が多い。名家の息子や経営者の息子などが昔から集まる学園で、蒼介さんも卒業生だ。中高一貫の男子校で寮生もいる。電車で三十分ほど揺られて徒歩十分で正門に着いた。正門には広くて手入れの行き届いた庭がある。いつもそこにあるから素通りする生徒も多いのだが、なんらかの季節の花が咲いていた。
ちょうどその横を通り過ぎようとした時。
花壇の前でしゃがみ込んでいる奴がいた。朝早いため、登校している生徒は少ない。もしかしたら具合悪いのかと思って俺は背後から近寄ってみた。
すると彼は花を見ているようだった。朝早くから熱心に花を見ている。
(なんだコイツ)
ほとんどの生徒が見向きもしない庭の花を、じっと見ながら、動かない。そんな彼を見ているうちに時間が経過していることに気づいて、俺は慌てて腕時計を見る。走って行かないと間に合わない。
「やべ」
俺は彼に背中を向けて、生徒会執行部の部屋へと駆け出した。
彼が振り向き、俺を見ていたことに気付かずに。
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