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そして三年の月日が流れた。伊織とパンの生活は至って順調だった。なんだって伊織の受験は、学校からの推薦で決まったからだ。そのおかげでパンとの遊ぶ時間は増えていった。そしてパンの不思議について考えるようにもなった。今までは魔法が使える、物を浮かせられる程度の認識であったが、よくよく考えれば、魔法を使う犬なんてこの世界にはパン以外存在しないだろう。伊織は残りの高校生活はこの不思議の解明に挑もうと思っていた。
「なぜ魔法を使えるのか……」
伊織は壁を歩いているパンを見ながら、顎に手をのせ考えた。しっぽを振りながら楽しそうに壁を歩いているパンは、今度は自分のしっぽを見つめてはそれを追いかけるようにくるくる回り始めた。パンは何年経っても一向に体が大きくなることはなかった。しかし、ごはんを自分でよそったり、勝手に一人で散歩に行くなど、成長は見られていた。
「器用だなぁ」
パンはくるくる回りながらも、壁から足を離すことはなかった。昔はずっと宙を飛んでいたが、ここ最近は要領を得たのか、しっかりと地(?)に足をつけて歩き始めた。その姿を見ながら伊織は思考を巡らせた。
「器用だし、しつけとかあまりしなくてもしっかりしているし、本当は私の言葉とかりかいしているとか、そんなことない?」
伊織の問いかけに、パンは答えない。ひたすらにしっぽを追いかけていた。伊織は椅子から立ち上がると、パンに向かって手をを広げた。
「おいで!」
伊織の言葉にパンは振り向くと、宙を歩きながら伊織の胸元まで寄り添ってきた。いつものように抱きかかえ、伊織が背中を撫でると、パンは顎を伊織の腕に乗せた。
「これは練習させたし、来るのは当然か……、よし」
そう言って伊織はパンを優しく放り投げた。パンは楽しそうにしっぽを振りながら綺麗な回転を描きながら浮いていった。そして伊織は目を輝かせながらパンに言った。
「じゃあ、今度は私を浮かせて」
「アウ?」
パンは伊織の言葉に適当に返事を返す。だが、パンは宙で回転することを止め、伊織の方を見つめた。おすわりしながら瞬きもしないで、パンは伊織を見つめた。その姿に伊織は目を輝かせ期待した。
「パン! もしかして……!」
伊織の期待の声に応えるように、パンは「ワン!」と叫んだ。だがそのあとに、パンが「くぅん……」とうなだれると、伊織は自分の期待が不発で終わったことを悟った。
「ダメか―、少しは空飛べるかなぁと思ったんだけど……」
伊織の言葉にパンは申し訳なさそうにこうべを垂れた。
「ご、ごめんね。パンは悪くないんだよ?」
伊織はパンの様子にすぐさま謝罪すると、パンの頭を撫でた。次に垂れた耳、首から背中にかけて撫でると、パンはしっぽを振りながら体をブルブルと振るった。パンの仕草に伊織は微笑むと、次の疑問を口にした。
「じゃあ次は何か生み出してみよう。物を浮かす魔法みたいに、何かを生み出す魔法だってあるはず」
昨日読んだ小説にはそういう話が出てきたし、きっとパンにもできるに違いない。伊織はそう思うと、パンの目の前に、両手で水をすくうように手を丸めた。パンはその両手を首を傾げて不思議そうに見た。
「今度は、この手のコップに水を出してごらん。きっとできるよ」
伊織の言葉が通じるわけもなく、パンは伊織の両手に顔を突っ込み舐め始めた。その様子に伊織は少し残念そうにするが、しょうがないね、と思い、パンの魔法については物を浮かせられる程度と結論を付けるのだった。
伊織はパンの頭を撫でながら、もう大学生かと思い更けていた。当然と言えば当然ではあるが、いかんせん隣にいる一向に大きくならないパンを見ていると、初めて会ったあの日からまったくと言っていいほど時間が経っていないように思えてしまってならなかった。栞奈ちゃん曰く、「体が大きくならない犬もいるらしいわよ」とのことで、パンもその一種なのだろうと思っていた。
だが、そんな考えは次の日の朝、伊織が目を覚ました時に覆っていた。
「なんじゃこりゃ……」
口をぽかんと開けた伊織の目の前には、部屋いっぱいになるほど大きくなったパンが立っていた。大きくなった当の本人は特に不満そうな顔をせず、水を飲みたくなったら口元まで容器を持ってきて飲むなど、たいして生活に支障がないように見えた。
「なんで大きくなったのよ」
パンに問いただすように伊織は尋ねた。パンは伊織を見下ろしながら首を傾げた。体が大きくなったせいか、パンの鼻息が伊織の顔を触り、少しの鼻水がべたりと頬についた。
「……うう」
伊織は袖で顔を荒く拭いた。拭い終えると、今度はパンが伊織の顔を舐め始めた。大きなザラザラした舌が伊織の顔を顎から髪の毛までかけてぺろりと舐めた。
「うげぇ」
パンの舌についたよだれがべっとりと伊織の顔を濡らした。ここまでくると袖で拭ったところで服が駄目になると考えた伊織は、パンに「帰ってくるまでに元の大きさに戻りなさい!」と怒ったあと、パンの足元を潜りながら部屋を出て行った。
伊織が一階へ下りお母さんから「なにその顔……」と驚かれたあと、洗面所で顔を洗った。そして、伊織が部屋へと戻るとパンの体はいつものように小さな体へと戻っていた。しっぽを振りながら出迎えてくれるパンに伊織は「大きくなるのはパンには似合わないよ」と苦笑いしながら頭を撫でた。
伊織は就職活動に専念する歳になった。毎日毎日、履歴書を書いたり企業訪問をしたり、伊織のストレスはどんどん溜まっていった。「我が社とのご縁がなく……」と書かれた企業からの不採用通知書を受け取っては、伊織の感情は自分が思うほどに制御が利かなくなっていた。そんな生活を続けていたある日だった。伊織はポストから一通の封筒を手に取ると、封筒の中に書かれている三十五社目の不採用通知を確認すると、悲しむことも悔やむこともせずにゴミ箱へ捨てる。その姿を見ていたお母さんは伊織の背中を優しく撫でた。
「あなたの魅力に気づけない会社のせいよ。あなたのせいじゃないわ」
「あっそ」
伊織の声は冷たく、お母さんを突き放すように言い放った。伊織は背中を撫でられているのにもかかわらず、お母さんから逃げるように背を向けて、部屋に戻る階段を上がろうとした。
「ねぇ、伊織」
伊織の背後からお母さんは声をかけられる。伊織は目線だけ心配そうな顔をするお母さんに向けた。
「なに?」
「休憩しない? 少しだけでもいいの。二週間とかそのくらい何もしないで。ね?」
伊織は驚いた。小学生の時はいつも怒鳴り散らしていたお母さんが、伊織を心配し、優しい声で気にかけたのだ。しかしなぜだろうか、その言葉に物凄くイライラしてしまう。伊織は落ち着こうと深呼吸するが、次に湧き上がってきたものは怒りだった。
「休憩って、お母さんはいいよね。就活とかしないで、見てるだけだもん」
伊織はとげとげしく言い放った。喉の奥が熱くなり、歯ぎしりしてしまう。
「私だって昔は働くために就職活動したわよ。あなたと同じでね」
「でも今働いてないじゃん。なんでそんな偉そうなの?」
お母さんの気遣いを伊織は強い言葉で跳ね除けた。お母さんが苦しい顔をしながら言葉を詰まらせた。伊織は自分が言った言葉がお母さんを傷つけていると理解した。理解してなお、喉から溢れ出る言葉の数々を止めることはできなかった。
「今と昔は違うんだよ? 今はどんどん企業に挑戦していかないと働けないんだよ? 自分の興味のない企業とかでも進んで頭下げて、お願いしますって言わなきゃいけないんだよ? 分かるかな? 分からないよね? だってお母さんは人の気持ちとか分からないから。小さいころにあれだけ怒っててさ。自分の思うようにならなかったから怒ってたんだよね。そんな人が、なんで私のことを知っている風に話すわけ?」
「伊織……、あなたのために私は」
「なんで! そんなに! 偉そうに!」
伊織は激昂のあまり、床を力強く蹴った。何度も何度も、自分の中から溢れ出る怒りをぶつけるように、嫌なことも、苦しいこともすべてぶつけるように地団駄を踏んだ。その音にお母さんは体を強張らせ、二階ではパンが吠えていた。そうやって伊織は自分が怒っているということを認識すると、小学生の時によく怒っていたお母さんの姿を思い出しては、自分の姿と照らし合わせるとなんだか悲しくなり地団駄を踏むのを止めた。
「もういい、もういいから、話しかけないで。イライラしちゃうから」
その言葉を残すと、伊織はお母さんの方を振り返らず、自室へと戻っていった。
伊織が部屋に戻ると、先ほどまで吠えていたであろうパンはベッドの上で丸まっていた。伊織が部屋に入るとパンは必ずこちらを見つめるはずだが、今日に限ってはそのような素振りを見せてこなかった。
「パン。ごめんね。驚かせちゃったよね?」
伊織はさきほどの自分の行いを反省するように、パンに声をかける。だが、パンが反応することはなかった。
「パン?」
伊織は恐る恐るパンに近づく。すると、パンは丸まった状態で浮遊し出し、伊織の顔を見ずに胸元に飛び込んできた。突然の行動に伊織は驚きながらもしっかりと抱きかかえると、伊織の腕にパンは顎を乗せた。
「ごめん。驚かせちゃったよね。ごめんね。」
伊織の目には涙が浮かび、伊織はパンの背中を撫でながら、自分に「ごめんね」と言い聞かせるように呟いた。パンは心配そうに伊織を見つめながら、伊織の頬に伝う涙を舐めていた。
そうして伊織は自分を慰めながら、また明日、企業面接に行く準備をし出すのだった。
次の日。この日は朝から大雨が降っていた。伊織は思い瞼をこすりながら目を覚まし、喉を通らない朝食を食べ、着たくもないスーツへと着替えた。一段とスーツが重く感じる中で、伊織はビジネスバッグを持ち玄関へと向かった。伊織が玄関へ行くと、そこにはパンがおすわりして扉の前に座っていた。そういえば朝から部屋にいなかったなと思い出しながら、パンに「行ってくるね」と告げると、伊織は玄関の扉を押した。だが、扉は微動だにせず伊織を通せんぼした。伊織は驚きながらも、玄関に備え付けられた鍵が閉まっていないことを確認すると、再び扉を押した。それでも、扉が動くことはなかった。
「ははーん」
伊織は納得したように足元にいるパンを見た。おすわりしながらしっぽを振り、へっへっへと息を荒くしながら伊織を見つめていた。その愛くるしい表情に伊織は微笑んだ。
「パン。扉を開けて頂戴」
伊織は膝を曲げ、パンの頭を撫でながら、玄関の扉を押した。それでも動くことはなく、扉を押さえつけているパンは撫でられたお礼にと伊織の手を舐めていた。伊織は腕時計を確認し、困った顔をしながらパンに声をかける。
「パン。お願い。そろそろ行かないと時間が……」
伊織はパンの頭を撫でながら再度お願いした。パンは伊織に頭を撫でられ、嬉しそうにしっぽを勢いよく振り続けるだけで、扉を開けようとはしなかった。そんな最中、騒ぎを聞きつけたお母さんが玄関へと歩いてきた。その姿を確認した伊織は仕方がないといった顔でお母さんを見た。
「お母さん。パンが扉を開けてくれないの。本当にしょうがない子ね」
伊織はやれやれと言い笑ったが、お母さんの表情はいつもの心配そうな顔をし、伊織に告げた。
「伊織……。パンちゃんはね。もういないのよ」
伊織はお母さんの言葉に一瞬表情を失うが、何を馬鹿なことを言っているんだろうと、再度笑って見せた。
「なに言ってるの。だってここにいるじゃない、パンは」
「あなたが撫でているのは、下駄箱よ」
伊織はそれを見た。お母さんが言ったように、伊織が手に触れているのはパンの頭ではなく木製の背の小さな下駄箱だった。伊織は困った表情をお母さんに見せた。
「あー、だったらパンを探さないと。ここを開けてくれないしね」
まったく仕方ないな、と言いながら伊織は自分の部屋に戻る。自分の部屋を開けた先には、教科書や衣服、倒れている移動式のハンガーラックや使い古された犬のぬいぐるみが床に散乱していた。その部屋を見て、伊織はすぐにパンの仕業だなと思った。
「パン! どこにいるの! 出てきなさい!」
伊織が叫んでも、パンは姿を見せることはなかった。伊織はおかしいな、と思いながらもう一度叫ぼうとするが、後ろを付いて来ていたお母さんに抱き寄せられる。
「パンちゃんはいないの。あなたがパンちゃんを見つけてから二日後に死んだのよ」
お母さんは伊織の肩を優しく叩いた。ゆっくり優しく、慰めるように言い聞かせるように肩を叩いた。
「うそだ……」
「嘘じゃないの……。私は覚えているもの。あなたが必死に看病してたの。ずっと面倒を見て、頑張ってご飯やお水を飲ませようとして、時には抱っこしながら散歩して。あの子を助けようとしたの……」
伊織の心の中で、パンという存在が音を立てて崩れた。それと同時に、伊織も力が抜けたように膝をついた。
「パン……」
伊織は崩れていくパンという存在をなんとか繋ぎ止めようと、ひたすらに「パン……」と呟いた。
「ごめんね。伊織。私のせいなの。私があなたに厳しくしていたから、きっとそれであなたを追い詰めたんだわ。ごめんなさい。私のせいで……」
お母さんは涙声で謝罪した。膝をつく伊織を支えるよう抱き寄せながら、伊織の体をさすった。伊織は心臓が張り裂けそうに苦しくなり、涙を流しながら嗚咽を漏らした。
伊織は直感した。きっとこの涙と嗚咽が終わるころに、私はパンのいた世界とお別れをするのだろうと。私は怒るお母さんが嫌すぎて、ボロボロだったパンにすがった。きっとこの子がいればお母さんは怒らなくなるだろうと。パンといる世界は楽しくて、面白くて、私だけの大切な友達になると、私はパンに私が望む優しい世界を押し付けた。魔法のように楽しい世界を。だからパンも、私に魔法のような楽しい世界を見せてくれたのだ。たった二日間だけの友達。けれど、私の心を支えた魔法使いの犬だった。
あれから一年の月日が経ち、伊織は勤めている会社の帰路についていた。退屈な業務と、どうしようもない上司の怒りに飽き飽きしながらも、伊織は河川敷を歩いていた。空は青紫色に点々と輝く星々を散りばめながら、堤防を歩く伊織を照らしていた。伊織は仕事の嫌なことを思い出してはため息をつき、俯きながら歩いていると、どこかで悲しげな声が聞こえた。伊織はすぐさま顔を上げる。周囲は真っ暗闇なため、伊織はスマートフォンを取り出すと、それを光源にしてあたりを見渡した。悲しげな声の正体がわからず伊織が首をかしげると、また小さな声だが「くぅん……」と今度ははっきりと聞こえた。
「あっちだ……」
伊織は堤防から高水敷まで一気に駆け降りると、そのまま橋の下まで進んで行った。橋の下は伊織の膝まで伸びた雑草と、所々にレジ袋やたばこの吸い殻などが落ちていた。伊織は少しいやな顔をしながら声のするほうに進んで行った。
「くぅん……」
悲しそうに鳴く声のもとに伊織はたどり着いた。ちょうど伊織が片手で持てそうな段ボールの中に鳴き声の正体はいた。
「ワンちゃんだ……」
スマートフォンの光で照らすと、そこには白色の毛並みをした犬がおすわりしていた。短い四本足と長いしっぽを持っており、耳は犬の目を隠すように垂れていた。犬は舌を出しながら、へっへっへ、と息を荒くしており、伊織を見つけては段ボールから飛び出す勢いで跳ねていた。
「ワンちゃん、元気だね」
伊織が犬を抱きかかえようと持ち上げると、犬はしっぽを精一杯振りながら伊織に持ち上げられた。伊織は犬を落とさないようにしっかりと抱きかかえると、犬は大人しくなり伊織の腕に顎を置いた。その様子を見た伊織は思わず笑ってしまう。
「ははっ、パンより重たいや」
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